端的に言えば、人はパーソナルコンピュータを、計算機として使ってきた。今では多様なインターフェイスを備え、無数の結果を出す装置となったが、基本的には自分の作業の効率化や品質向上に利用してきた。
たとえば、文字を書いたり、絵を描いたりするが、その際も自分のアイデアを具現化するための道具として利用してきた。どんな計算が必要か考えて関数を入力し、どんな絵が描きたいかを考えてドローイングソフトを使う。要するに、鉛筆や絵の具の代わりであり、何をするか考えるのは人で、パソコンは道具だ。
パソコンの役割は、インターネットとの組み合わせで一気に広がった。それまでの用途とはガラリと変わり、情報閲覧や発信、コミュニケーションなど、ネットワークを介して自分を拡張できるツールへと進化した。チップの性能も上がり、今では3DCGのような重たい処理もこなせる。それでも、パソコンやスマートフォンなどのパーソナルなデジタルデバイスは、やはり道具だった。それで何を生み出すか考えるのは、それらを使う人間だ。しかしその役目は、生成AIの一般化により、大きな変革のときを迎えている。
現在では、多くの人類がデジタルに頼っている。しかし、アイデアを考えたり、着想するのはまだ人間だ。ところが、今のAIへの頼り方はそれとは異質に感じる。
生成AIは、人がこれまで担当していた「考える」部分に大きく踏み込んでくる機能だ。生成するものが文章であれ、イラストであれ、人がクリエイティブに思考して生み出していたもっとも手間と技術が必要な部分を、代わりにやってくれる。それを道具を使う行為だと見なせばそうなのかもしれないが、制御できる範囲が従来のデジタルツールとは明らかに異なる。
人が四苦八苦しながら時間をかけて1つのものを生み出す間に、生成AIなら数百の成果物を短時間で量産できる。そこから生まれてくるものは一見高品質だし、そのうちに人が作るものと見分けがつかなくなるだろう。その成果主義の権化のような作業の継続は、この先に何を生み出すのだろうか。
人の代わりをするテクノロジーと言えば、たとえば自動運転がある。いずれレベル4以上の自動運転が認められ、人々が常用するようになると、おそらく元の運転方法には戻れなくなる。そのうちに最初から自動運転の車に乗る人も出てくる。ペーパードライバーに運転はできない。
これは、生成AIも同様だ。効率やコストを考えると、人はこの先、さまざまなジャンルで生成AIを使うことになる。一度手に入れた楽な方法から、人は離れられない。これはAI、つまりデジタルへの本格的な依存の始まりではないか。これまで人のほうが「使いこなしている」と思っていたデジタルツールに、人は明確に依存し始める。
ここで人が依存するのは、創作のために「考える」「手を動かす」という行為だ。いよいよ根源的なものを手放し、AIの考えを評価する、もしくはAIから着想を得るとなると、それが常識となったとき、「創作のために考える」ことを放棄した未来がないとは言い切れない。
われわれの世代は構わない。おそらく大して変わらない。しかしたとえば、今の子どもたちが大人になる頃、人とデジタルの距離感はどうなっているのか。その布石を打つのは私たちだということは、どこかで意識していたい。
本連載はこれでいったん終了となる。デジタル技術の大きな変化の節目に、貴重な執筆機会をいただいたと思う。しかしながら、私は当分の間、デジタルが織りなすこの深い迷宮から抜け出すことはできないようだ。
写真と文:矢野裕彦(TEXTEDIT)
編集者。株式会社TEXTEDIT代表取締役。株式会社アスキー(当時)にて月刊誌『MACPOWER』の鬼デスクを務め、その後、ライフスタイル、ビジネス、ホビーなど、多様な雑誌の編集者を経て独立。書籍、雑誌、WEB、イベント、企業のプロジェクトなど、たいがい何でも編集する。