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Tales of Bitten Apple

失敗作

著者: 藤井太洋

失敗作

イラスト/灯夢(デジタルノイズ)

エレベーターの〝自動〟と書かれている扉を手で開けたおれは、フロントに三日前から貼り出されている張り紙に肩を落とした。

今日もバスは来ない。

「ごめんねえ、ミスター・ジャンボ」

レースで縁取られたショールが揺れ、しわくちゃの顔がカウンターの下からひょいと飛びだした。地中海に面したクリミア半島のリゾート村、ノヴィスヴィトに百年続いた春の宿(ベスナ・ホテル)の三代目当主、ゾーイ・ニヤッチだ。

「一本しかない道がね、独立派ゲリラに崩されてしまったのよ。携帯のアンテナも倒されちゃっててね」

「そりゃ昨日も聞いたよ。続報は?」

おれはロビーの新聞を取りあげ、元に戻した。三日前のものだ。

「ネットは? 無料よ」

「ロシアの検閲つきだろ。やめとくよ」

「見損なってもらっちゃ困るわ」

ゾーイはカウンター奥のiMacフラワーパワーを骨張った指の背で叩いた。

「カビの生えたアイヴの失敗作」とまで言われるマシンだが、オレンジ色の電球の光を透かす様はそう悪くない。中にこびりついた埃を払えば美しさを取り戻すだろう。

あの花柄はプリントとは違い、染色ポリカーボネイト樹脂の直接注入というキワモノ技術で作られている。後に、製造プロセスに強い拘りをみせたアイヴの第一歩を記す記念碑的なマシンだ。

「まだ動いてるのか」

「娘が買ってくれてね、ロシアの検閲を避(よ)けるためにタタール独立派の、なんだったかしら。物忘れがひどくてね。В、П(ビー・ネー)……」

「ВПН(ビーネーエフ)(VPN(ブイピーエヌ))かい? やめとくよ」

象牙や石油を資金源にできないヨーロッパのゲリラは、個人情報を売って活動資金を稼ぐ。

おれはロシア政府にいい顔を見せてきた村の資産家に、資金洗浄(マネーロンダリング)用のiPad千台を運んできたばかりだ。英語やロシア語の情報を求めて独立派のネットに繋ぐのは危険すぎる。

そんな立場を知ってか知らずか、ゾーイはホテルの正面を指した。

「噂話なんかどうだい。床屋のおやじは事情通よ」

「髪の毛、ないし」と額から頭頂部までをつるりと撫で上げてやる。

あらごめんなさいね、と笑いをこらえたゾーイが甘い砂糖菓子をカウンターの上に載せて言った。

「髭は剃っておいでよ。娘は今日帰ってくるのよ。お食事でも一緒にどう?」

「道は通れないんじゃなかったか?」

「地元の娘よ、なんとでもするわ。いつ戻るのかメールで聞いたんだけど─くそっ(ヒヴノッ)!」

ゾーイがマウスをがちゃりと鳴らす。

「メールが飛んでないわ。こんなこと今までなかったのに」

「見てやろうか」

「あら、娘には興味があるの?」

ゾーイがカウンターの上に写真立てを持ち上げると、くっきりした目の女性がゾーイと寄り添っていた。ほう、と漏らしたおれに、ゾーイは思わせぶりな口ぶりで「美人でしょう。だから髭ぐらい剃ってきなさいよ」と言いながら、おれをカウンターの内側に招いた。

「はいはい」と相づちを打ったおれは失望した。

マウスが二つボタンだ。娘さんに審美眼はないらしい。

何気なくデスクトップを右クリックしたおれは、見覚えのないコンテクストメニューに〝Open in Terminal〟があることに気づき、目を細めた。

「あなた、誰!」

鋭い声がロビーの回転扉から飛んだ。

トレンチコートを着た女性、アイラがおれを睨んでいた。

「日本から来たお客さんよ」

カウンターから迎えに出たゾーイへ、アイラは「母さん、その人にマックを触らせないで」と言い捨てて地下の従業員室へ降りていった。

「あらあら、ジャンボさん。嫌われちゃったわね」

「そうじゃないらしいぞ」おれはターミナルに表示されたUbuntuLINUX(ウブントゥ リナックス)のディストリビューション情報を見て言った。

「ばあさん、相談があるんだがね」

二十二時。門限を過ぎて真っ暗になったロビーにコンバットブーツの足音が響いた。

街灯で照らされた人影でわかる。トレンチコートを着たままのアイラだ。ポケットは妙な形に膨らんでいた。

おれはロビーのソファから声をかけた。

「iMacを壊さないでくれ」

ぴくりと肩を震わせたアイラが振り返った。

「壊す?」

「分解は、素人には無理なんだ」

アイラに近づいたおれは、銀色のUSBフラッシュメモリをポケットから取り出してカウンターに置いた。

「VPNに必要なファイルとプログラムはこっちに移しておいた。PPCLinux(リナックス)のMacスキンとはね。驚いたよ。HDDはおれが持ってきた新品と入れ替えて、もとのは円盤までバラして割って捨てておいた」

アイラがポケットに手を突っ込み、樹脂の嵌まる音がした。ゲリラが護身用に持ち歩く3Dプリント銃(リベレーター)だろう。

「暴発必至のリベレーターなんかに命賭けるなよ、クリミア・タタール独立派の幹部、通称〝市民の旗(プラポール・フロマドヤニュア)〟 さん」

「……あなた、誰?」

「村がРЭБ(エルエーベー)(ロシア共和国情報軍)のDDoS(ディードス)とDNSポイズニングを受けてVPNが落ちたから戻ってきたんだろ。おれはApple製品を扱う日本人の商人さ」

おれはiMacに手をかけた。

「こいつは十年後、ゾーイばあさんからおれが買いとることにした」

アイラの瞳が揺れる。迷いだ。正体を知ったおれをここで殺すか、仲間を呼んで掠い、後で殺すか。

極地をくぐり抜けてきた身だ。それぐらいはわかる。

「勘違いしないでくれよ。通報もしないし、ここにVPNがあったことも口にしない。おれが欲しいのはこのiMacだけだ」

「その……iMacを?」

ああ、とおれは答えて、フラワーパワーの外装を撫でた。白かった地の色は黄ばんでいるが、HDDを抜くときに分解清掃してある。おれはiPhoneのLEDランプを灯して、光を透かしてみせた。

「エミール・ガレのランプみたいだろ」

「は?」

「ばあさんに言ったんだ。なんでもいいから、日記書いてくれって。そうすりゃこのフラワーパワーは歴史の証人として結構な値段で売れる。クリミア動乱の記憶を残したのがアイブの傑作だなんて他では得がたいバックストーリーだ。官憲の手になんて渡せるか」

「傑作?」

アイラは眉をひそめ、吹き出した。

「カビの生えたコンピューターが?」

「馬鹿にするなよ。おれは、このマシンが好きなんだよ。百年物の宿にすっと似合うこのマシンがね。家庭になんとしても入り込んでいくぞって心意気がたまらんじゃないか」

おれは光を透かすポリカーボネイトの表面を撫でた。

「アイラさん。ゾーイばあさんと一緒に磨いちゃどうだい。美人が磨いたマシンなら、一割は買い取り価格を勉強してやれるよ」

藤井太洋

2012年、セルフパブリッシングの『Gene Mapper』でデビュー。『オービタル・クラウド』で第35回日本SF大賞、第46回星雲賞日本長編部門を受賞。