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機上のジーニアス

著者: 藤井太洋

機上のジーニアス

イラスト/灯夢(デジタルノイズ)

《──をお持ちのお客様。いらっしゃいましたら、至急、前方ファーストクラスのギャレーまでお越しください》

アテンダントの切迫した声が飛び込んできた。慣れない機上、それもビジネスクラスの席の袖から出したトレイで細かい作業をしていたので、聞き漏らしていたようだ。俺はトレイに顔を戻して、iPhone6のネジを規定のトルクで締め上げた。発売から一〇年経つモデルだが、美品は西海岸の好事家に一五〇〇ドルで売れる。

一ヵ月前に黒海沿岸の漁師が引き上げた三〇〇枚のiPhoneを俺は一〇枚買い取って、レストアしながら運んでいるところだった。マネーロンダリングの受け渡しに失敗して沈んだ端末だろうが、豊富なジャンク部品と技術を持つ俺にとっては、今も金の延べ棒だ。

アナウンスが再び流れた。

《Appleストアのジーニアスご経験者様、または同様の経験をお持ちの方、いらっしゃいましたら、名乗り出てください》

──飛行機でジーニアス? 緊急?

反応できずにいる俺の目の前で、ファーストクラスへ通じるカーテンが割れ、黒ずくめの女性が踏み込んできた。

女性はiPhoneの乗るトレイに鋭い視線を向けた。

「手に握ってるそれは、ペンタクル・トルク・ドライバー?」

「……はい」久しぶりに聞く、星形ドライバーの正式名称だ。

女性はボディアーマーの隙間に左手を差し込み、二つ折りのIDを掲げた。

「マレーシア警察の航空警備員(スカイマーシャル)、アニタ・ビンチ・イル・ムハンマド──アニタでいいわ。あなた、Apple製品の経験はどの程度ある?」

「二〇一〇年から五年、GINZAのストアで勤務していました」

「ジーニアスだったの?」

頷いた俺の耳元に、アニタと名乗った女性は口を寄せた。血と汗と樹脂の燃えた臭いに、彼女が元々つけていたのだろう白檀の香りが混ざる。

「当機、MH270便はハイジャックされている。すぐに来て」

荷物を持ってひとけのないファーストクラスについていくと、アニタは仕切り板を引き出して、普段使わないのであろう上下の赤いラッチで鍵を掛けた。

ファーストクラスは綺麗で、格闘などがあったようには感じられない。

「アニタさん。ハイジャック──と言いましたか?」

「もう犯人は機外へ叩きだした。でも機は乗っ取られたままなの。機長、副機長も──コックピットの酸素供給が止まってから二〇分が経過しようとしてる」

「犯人がいないのに、乗っ取られているんですか」

アニタは機体前方の床を指さした。

「ハチヤさん。E/Eベイはご存知? 航空機の電子装置(エレクトリック)と各種機器(エクイップメント)が収められている小部屋よ」

航法から機体制御、酸素の供給、機内ネットワークや娯楽メディアまで、すべての電子機器が収められた航空機の心臓部だとアニタは付け加え、イヤフォン付きの無線機と、感電防止のためだというコードの生えたリストバンドを手渡して、ついてこい、と機体前方へ歩き出した。

ちょっと待ってください、という抗議を無視したアニタはギャレーの前方で膝をついてカーペットをめくり、ハッチに手をかけ、来いと手招きした。

「鍵はないんですか」

「二〇〇四年から指摘されていたボーイング777の脆弱性よ。新型は改修されているけど、この機体は日本の航空会社から借金のカタに引き取った中古なの。さあ、入って。茶色の床が絶縁体よ。踏み外さないでね」

開いたハッチから轟音が響いた。

「ちょっと待ってくださいよ。心臓部でしょ。案内してくれないんですか? マーシャルならチームでしょ──」

「パートナー。いたわ」

アニタは唇を噛んで首を振った。

「彼はハイジャック犯を抱いて、E/Eベイの機外ハッチから飛び出した。今は私一人。犯人の一味がまだ客室に残っているかもしれない。ハチヤさんが作業を終えるまで私がE/Eベイを護る。さあ、入って」

小さなラダーを降りて入ったE/Eベイには、幅一メートルほどの通路を挟んで、機材を収めたラックが所狭しと並んでいた。鈍く光り、湾曲した壁には断熱材も貼られていない。

冷気に身体を縮こまらせた俺の耳に、アニタの声が響いた。

《作業机はわかる? 右手奥のラックの、さらに奥。緑色のボンベの手前》

ああ、と答えて茶色の絶縁帯を進むと、この場所には似つかわしくない──だが俺が呼ばれる理由としてこれ以外のものは考えられない金色の端末があった。

たったいま組み上げていたのと同じ、ゴールドのiPhone6だ。

ライトニング端子から伸びたUSBケーブルはいかにもお手製といった雰囲気の黒い箱に吸いこまれていて、その箱からはケーブルの束が手前の機材ラックに吸いこまれていた。画面にはいくつもの数字とアルファベットが明滅している。

「……まさか、この飛行機、iPhoneで飛んでるのか?」

《飛んでるだけじゃない。生命維持装置も、扉も、すべて乗っ取られている。インマルサット──衛星通信も使えない》

「アプリを落とせばいいじゃないか」

《一度やったわ。でも、燃料が投棄されはじめたので、立ち上げ直したの。機材は既にいじられてしまっているみたい》

「……何をすればいいんだ」

《アプリを落とさずに、設定を書き換えられない?》

「無理だ」

《やって。死にたくなければ》

結局、俺はやりきった。

犯人の残したiPhoneがジェイルブレイクされていたのが幸いだった。ストレージのNANDフラッシュを物理ページごと複製するアプリを作り、組み上げたばかりの俺のiPhone6に複製し、調査を開始した。

ほどなく発見したアプリの定義ファイルがボーイング777のシステムコールと酷似していたのが二つ目の幸運だった。アニタはコックピットのロックを解除して、まだ息のあった機長と二人の副機長を救い出し、自動操縦で出発地のクアラルンプール国際空港へ向かわせた。

忙しなく地上と連絡を取り続けるアニタを横目に、ファーストクラスを一席ぶんどった俺はE/Eベイで冷えた身体をコース料理のスープで温めながら、ビジネスクラスより格段に広いトレイで残りのiPhone 6を組み上げていた。

「全く、ついてない」とぼやきながらも最後のネジを閉めた俺は、電源を入れて目を疑った。

ホーム画面に、ハイジャック犯のiPhoneと同じアプリがインストールされていた。それだけではない。エアバス360マーク2にボンバルディアDHC10──思いつく限りの旅客機の名が付いたアプリが並んでいた。

漁師が引き上げたiPhoneは、マネーロンダリングのために集めた端末ではなかった。ハイジャック用の兵器だったのだ。

やっと暖まった身体に、震えが走った。

この便が狙われた理由は、俺が手に入れたこのiPhoneを永久に消し去るためだったのだ。

藤井太洋

2012年、セルフパブリッシングの『Gene Mapper』でデビュー。『オービタル・クラウド』で第35回日本SF大賞を受賞。