アップルが描いた未来
出港前に漁港でiPadを見ながら漁の打ち合わせをする漁業者、出漁中に漁船でiPadを見ながら無線で情報交換する漁業者、帰港後に漁港でiPadを見ながら技術指導を受ける漁業者。実はこれ、未来の水産業ではありません、現在の水産業なのです。
2000年代に政府が進めてきた「e−Japan戦略」、「u−Japan政策」によって、日本は世界有数のIT先進国となりました。いつでも、どこでも、情報を取得し、情報を発信することのできるユビキタスネットワーク社会が実現したのです。今日では、私たちは情報に囲まれ、直接的に、または間接的に、その恩恵にあずかり生活しています。
ユビキタスネットワーク環境が整備されることと、ユビキタスネットワーク社会が実現することは、まったく意味が異なります。もちろん、ユビキタスネットワーク環境が整備されなければユビキタスネットワーク社会は実現しませんが、ユビキタスネットワーク環境が整備されただけでは、私たちの生活は豊かになりません。情報と私たちとの接点が必要なのです。
その意味で、ユビキタスネットワーク社会の実現にアップルが果たした役割はとても大きいと言えます。日本では、2008年7月にiPhoneが発売されたことをキッカケに、スマートフォンが急速に普及しました。それまではコンピュータが、情報と私たちとの接点の中心でした。つまり、コンピュータを扱うことのできる限られた人たちだけが、ユビキタスネットワーク環境の恩恵にあずかっていたのです。ところが、スマートフォンが情報と私たちとの接点の中心となったことで、いつでも、どこでも、だれでも、情報を活用することができるようになりました。すなわち、情報が身近なものとなったことで、私たちの生活が豊かになったのです。u−Japan政策では、生活面だけではなく産業面での情報の活用も推進していました。それを可能にしたのがiPadなのです。
らしくないコンピュータ
資源量の減少や漁業者の高齢化、さらには、地球温暖化による海洋環境の変化など、水産業はさまざまな課題に直面しています。将来に渡って、私たちの食卓に新鮮な、そして、安心な魚介類を届けるため、漁業者は変化を必要としていました。そこで、我々の研究グループは漁業者と一体となり「スマート水産業」の推進に取り組んだのです。
その目的は「見える化」です。情報を共有し、水産資源と海洋環境を見える化することで、計画的な資源管理と効率的な生産が可能になると考えました。システムを構築し、準備を整えました。しかしながら、我々の取り組みはひとつの壁にぶつかってしまいました。漁業者がタッチパネルパソコンに馴染めず、フィールドで情報を活用することができなかったのです。
2010年5月、日本でiPadが発売されました。約2週間後、東京・日本橋で開催される会議に出席するため、函館から上京した私は会議の前に銀座のアップルストアに立ち寄りました。特に目的があったわけではなく、話題のiPadを見てみたいという軽い気持ちでした。実はそのときまで、私はアップル製品に触れたことがなかったのです。
iPadの最初の印象はコンピュータらしくないな、というものでした。銀行のATMで振り込みをするとき、駅の券売機で切符を購入するとき、コンピュータに対面しているという感覚を持たないと思います。同じ感覚がiPadにもありました。これを持ち歩いていたら自慢できるかなとの思いもあり、実際に購入してiPadを持ち歩くようになると思いのほか便利でした。スグに使える、スグにしまえるiPadがスキマ時間の有効利用を可能にしてくれたのです。
生活と産業を変えたiPad
私が持ち歩くiPadに、漁業者も興味を示してくれたのは意外でした。手渡してみると初めてiPadに触れた漁業者が、何も説明していないのにマップを起動し、航空写真に切り替え、拡大し「これ俺の船!」と喜んでいるのです。同じ漁業者が一年前にタッチパネルパソコンに触れたときには「どうやって使うの?」と困惑していたのですから、その差は歴然としています。
こうした光景を目の当たりにした私はぶつかっていた壁を乗り越えられる手応えを感じ、さっそく資源管理のためのアプリ開発に着手しました。漁業者の会合に参加し、iPadを活用した資源管理を提案したのです。iPadの直感的なインターフェイスは、すんなりと漁業者に受け入れられました。
そして2011年、スマート水産業が実現しました。少々おおげさですが、私はアップルによる産業革命だと思っています。漁業者がiPadを持ち歩くようになり、フィールドで情報が活用されるようになりました。その結果、これまでの暗黙知による水産業から、形式知による水産業へとシフトしたのです。見える化により、漁業者は自主的に資源管理に取り組むようになり、漁期短縮や漁獲規制の努力によって資源が回復しています。
未来社会を思い描くことができ、世界に先駆けてアイテムを提供することのできる先見性がアップルの魅力です。iPhoneとiPad、この2つのアイテムが今日のユビキタスネットワーク社会を生活面と産業面の両面で実現したのだと私は考えています。
【事例】
和田教授が推し進めるiPadと漁業の取り組みに関しては、「ナマコ漁をiPadでICT化 – 新星マリン漁協とはこだて未来大の取組み」(http://news.mynavi.jp/series/iphoneipadkatsuyo/148/)を参照してほしい。
和田雅昭Masaaki Wada
公立はこだて未来大学教授。マリンIT・ラボ所長。ITを活用した水産業支援を研究テーマとしている。平成24年度北海道科学技術賞、平成26年度北海道総合通信局長表彰を受賞。現在『マリンITのほん(仮)』を執筆中。
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