
端末導入で終わらない“本当の医療DX”
医療業界に限らず、広くDXの推進事例として知られる病院が、愛媛県のHITO病院だ。地方の中規模病院である同院では、2018年に医師や看護師などへのiPhone導入を始め、2019年には全スタッフがiPhoneを持った。
2026年現在、その規模は590台。周囲を見渡せば、「連絡手段は未だに院内PHSが主流」という病院も多い。この「1人1台のiPhone」は、特にDXの遅れが指摘される医療業界において、その先進性が注目されてきた。
しかし、同院脳神経外科部長・DX推進室CXO(最高変革責任者)の篠原直樹医師は「ただiPhoneを導入するだけでは本当の意味でのDXとは言えない」と言い切る。その視線の先には、単に「使いこなす」以上の目標がある。
それが、ICTによる医療従事者の働き方改革だ。同院では現在、AI活用によるスタッフの業務効率化が浸透し、「カンファレンス」「申し送り」といった医療現場の慣習についても、不要なものの削減が始まっているという。
硬直化し、岩盤にもたとえられる医療現場において、本当のDXとは何か、どうすれば実現できるのか。篠原医師とDX推進室CIO(最高情報責任者)の佐伯潤氏、研修医でDX Project Coordinatorの金子雄司医師の3人に話を聞いた。

社会医療法人石川記念会HITO病院脳神経外科部長・CHRO・CXOを務める篠原直樹氏。

社会医療法人石川記念会HITO病院 CIO、CareNect株式会社代表取締役を務める佐伯潤氏。

社会医療法人石川記念会HITO病院の医師であり、DX推進室 DX Project Coordinatorを務める金子雄司氏。
業務SNSが変えた院内コミュニケーション
「1人1台のiPhone」から約7年。金子医師によると、iPhoneはすでに「ないと業務が回らないもの」になっているという。金子医師は研修医だが、一般企業での社会人経験があり、その経験を活かして病院のDX推進にも携わっている。年齢や職種を問わず、iPhoneは幅広く院内で使用されているという。
もっとも使用頻度が高いツールは、業務SNSだ。取材中、金子医師のiPhoneに緊急カテーテル検査を知らせる通知が鳴った。通知を機に、医師や看護師、検査技師ら関係者がチャットで次々に患者や準備状況の情報を共有する。直接の担当ではない金子医師は、ざっと情報を確認すると、「残りは後で」とiPhoneを置いた。
もし同院で今も、iPhone導入以前のPHSが使用されていたら——。中座して検査を知らせる通話を受け、また別の関係者に報告する、通話のリレーが行われるだろう。取材が終わった後は、状況の変化をもう一度、誰かに通話して確認しなければならない。相手が捕まらなければ、もう一度。かなりの負担になる。
チャットに情報を集約しておき、各自のタイミングで確認するフローは、一般企業ならすでに当たり前だ。しかし、医療業界はそうとは言いがたい。緊急なら通話のリレー、急ぎではない用事はナースステーションに置かれた医師向け伝言ノートで運用、といった病院は、まだまだ多いのが実情だ。
情報が局在していて、それにアクセスするためには、物理的にどこかに出向かなければいけない仕組みでは、「働き方が縛られてしまう」と篠原医師。その最たる例が電子カルテだという。そのため、同院では電子カルテやレントゲン写真、検査結果といったデータなどを、各自がiPhoneから確認できる。
その結果として起きたのが、朝礼・終礼や、一部のカンファレンスや申し送りなどのうち、不要なものの削減だ。業務SNSの普及により、「『リアルで集まって紙を読み上げるだけ』といった形骸化していた集会は『やらなくていいよね』というように、意識の変化が起きた」と篠原医師は言う。
AI活用で書類仕事の負担を減らす
近年、同院はAI活用により、医療スタッフの業務負担を軽減を図っている。現時点でAIの主な活躍の場は、医師や看護師らを圧迫する、いわゆる書類仕事だ。同院では電子カルテベンダの生成AIによるカルテ要約サービスを導入しているほか、各自のiPhoneにコパイロット(Copilot)を導入するなど、業務でのAI活用が浸透しているという。
具体的には、診療情報提供書や看護サマリの作成などにAIを使用。金子医師は「カルテの要約はかなりの精度で、ほとんど修正なくGOサインを出せることも多い」と言う。ただし、「『治療方針を立てる』といった使い方にはリスクがあるので、人が最終的に確認する仕事が適している」という。
佐伯氏は、医療現場でのAI活用によって、1人のスタッフの能力を拡張することで、「限られたスタッフの数でも、提供する医療の質を上げられる」と意気込む。最終的には、健診で集めた1万人以上の地域の健康データを活用し、AIでより健康になるためのアドバイスを提供することにより、地域に還元していく計画もあるという。
ICTやAIの活用にはセキュリティのリスクが伴うが、端末にMDM(モバイルデバイス管理)ソリューションを組み込み、アプリの使用を制限したり、紛失時は遠隔でデータを消去したりするほか、電子カルテの閲覧には指紋認証を必須にし、AIには機密情報などを入力しないように研修するなどして対応する。
地方で医療従事者が足りなくなる中で、医療需要は右肩上がりに増していく。篠原医師は、DXに取り組んだきっかけを、このような需要と供給のミスマッチだった、と説明する。「医療従事者が減る中で、今まで以上の医療を提供するには、医療DXを進めるしかなかった」とし、いわば生存戦略だったと振り返る。
国内有数の先進事例を築いたのは、そんな危機感だったと言える。その結果、同院では単に「ICTを導入して終わり」ではなく、働き方を中心とした病院の変革、すなわち本当の医療DXが実現しつつある。では、医療業界全体としてDXを進めていくには、どうすればいいのだろうか。篠原医師にそのヒントを尋ねた。
「これまでの医療現場は、紙という媒体を前提にさまざまな仕組みが構築されていました。現在の情報空間を前提にすれば、最適解は変わります。最初から『現状を変革する』とスタートするのではなく、便利なものが定着すれば、不要なものがなくなります。まずは恐れずに採り入れることから始めるのがいいのではないでしょうか」


※この記事は『Mac Fan 2026年5月号』に掲載されたものです。
