女子もプログラミング
小学校でのプログラミング教育の必修化に向けた動きが急速に進んでいる。6月3日に開催された文部科学省の有識者会議では、プログラミング教育の意義やあり方について討議され、「コーディング(プログラミング作成技術)」そのものよりも自分の意図する活動を実現するための論理的思考力、すなわち「プログラミング的思考」が重要と提言された。
こうした議論の背景にはIT人材の不足がある。経済産業省が6月10日に発表したニュースリリースによると、IT市場の成長率が高めに推移した場合、2020年には36・9万人、産業人口が減り始めた2030年には78・9万人が不足すると試算した。これは日本に限った話ではなく、程度の差こそあれ米国などでも同様の予測がなされている。アップルがWWDC 2016においてiPadで誰でもプログラミングが学べる「スウィフト・プレイグラウンド(Swift Playgrounds)」を発表したのも、こうした大きな流れを受けてのことだ。
だが、プログラミングの世界はいまだに男性中心で「かなりの偏りがある」と指摘するのは、レイルズガールズジャパン(Rails Girls Japan)のメンバーで、話題のプログラミング絵本『ルビィのぼうけん』の翻訳者である鳥井雪さんだ。普段はシステム開発会社のプログラマーとして働く鳥井さんは自らの経験も踏まえて、プログラミングへの入り口を狭めるような社会の意識を問題視する。
「世代にもよりますが、コンピュータやプログラミングは“男の子文化”という認識は根強いものがあると思います。もちろん海外でもそうした傾向はあるのでしょうが、日本ではこの偏りが顕著だと思います。これからプログラミングに触れようとする女の子は、この世界が自分に開かれているかどうかを敏感に感じとりますし、とっつきにくさを感じれば自分に関係ないと育ってしまうことも多いのではないでしょうか」
実際に経産省資料によれば、ソフトウェア業を占める女性の割合は20・3%とかなり低い水準となっている(2013年調査)。
鳥井雪
株式会社万葉のRubyプログラマー。レイルズガールズの初期メンバーで、2013年の東京開催でのオーガナイザーを務める。島根大学で年に1回開講される「Ruby on Rails」の授業やオンライン講座、ワークショップなどを多数経験する。
きっかけはレイルズガールズ
鳥井さんも所属するレイルズガールズは、その名の由来でもあるルビーオンレイルズ(Ruby on Rails=開発言語のルビーによるWEB開発のフレームワーク)を用いて、多くの女性にプログラミングの技術やその世界に親しんでもらうためのコミュニティだ。2010年にヘルシンキで無料ワークショップを開催したのち、インターネットを通じてその活動は世界各地に広がり、現在までに100カ国以上で開催されている。日本では2012年に東京で初めて開催され、その後も京都、札幌、名古屋、大阪、松江、長野、福岡など全国各地で継続して実施された。
レイルズガールズは基本的にボランティアベースで、出資者集めやコーチ役の募集などの運営ノウハウもオープンソースで公開されている。鳥井さんは2回目の東京開催でのオーガナイザー兼コーチを務めた。
「レイルズガールズジャパン自体は10数名程度ですが、固定メンバーではなく開催ごとに組織されます。自分のところでもやってみたいという人が参加してノウハウを吸収し、各地でオーガナイザーとしてコーチと生徒を集める感じですね。私も初期メンバーですが、最初に東京で開催するときは原田洋子さんという凄腕のプログラマーがいまして、そのときにコーチとして参加しました。その後、原田さんがアメリカに行ってしまったため、東京開催のオーガナイザーになりました。最初の協力者は知り合いが多かったですが、活動が次第に広がって前回の経験者が次の開催を裏方としてサポートしてノウハウを伝えるという仕組みになっています」
ワークショップはプログラミングの未経験者を対象に、2日間でレイルズでWEBアプリケーションを作るのが基本構成。プログラミング体験を通じて、プログラミングの楽しさを知ってもらうのが目的だ。
「これまでの参加者はプログラマーになりたいという人ばかりではなく、まったく別の職業だけど興味があるという人や、プログラマーと一緒に仕事をする機会の多いデザイナーさんなどがいました。プログラミング的思考を共有することで、プログラマーが話している言葉がわかりたいとか、自分でもできるようになりたいという要望が多いですね」
レイルズガールズジャパンのサイトでは過去のイベントや運営に関する情報が公開されている。自分の地元で開催したい場合は、同サイトに連絡してスポンサーやコーチ役などを集める必要がある。【URL】http://railsgirls.jp/
未来のデジタルネイティブへ
ここにも登場するプログラミング的思考法をもっと幼い段階から身につけ、次世代を担う子どもたちに広げるために始められたのが、絵本でプログラミングの基礎概念が学べる『Hello Ruby(邦題=ルビィのぼうけん)』の制作プロジェクトだ。主催者でありこの絵本の作者でもあるのが、レイルズガールズの共同創設者リンダ・リウカスさん。2014年にクラウドファンディング(インターネットによる資金調達サイト)の「キックスターター」で支援を募集したところ、開始からわずか3時間半で目標の1万ドルを達成し、最終的に約38万ドルを集めたことでも話題となった。
キックスターター版、英語版が2015年に出版されたのち、鳥井さんは出版社経由で日本語版の翻訳を引き受けることになった。
「著者のリンダ本人ともフィンランド大使館で知り合ってましたし、彼女がそのプロジェクトを進めていることも知っていました。普通、絵本の翻訳はプロの方が行うものですが、この本はプログラミングの考え方の本なので、子どもにわかるよう伝えるにはプログラマーのほうがよいと指名され、引き受けました」
本書は、主人公である小さな女の子ルビィが、5つの宝石を集める冒険の途上で、さまざまな個性的な友だちとの出会いからプログラミングの基本概念を知っていくという前半パートと、その考え方を深めるために遊びながら学べる練習問題(アクティビティ)の後半パートから構成されている。最初に英語の原書を読んだときの感想について尋ねると「コードが一切出てこない」ことに大きな驚きを覚えたという。
「コードの書き方や解説は出てきませんが、プログラムのエッセンスを伝えようという強い意志を感じました。絵本というと情緒的なものが多いというイメージですが、この本では概念や考え方に特化して、押しつけがましくなくストーリーの中に織り込まれています。コンセプトが一切ぶれない素敵な本という印象でした。あと、リンダさんの描いた絵が北欧っぽい色使いでかわいいですね」
詳しくは実際に同書を読んでいただきたいが、この絵本で語られるプログラミング的思考のポイントをあえて述べると、「大きな問題を小さな問題に分割する」ことと「繰り返しとパターンを見つけて段階的に計画すること」に集約される。本書では日常生活での出来事をモデルに解説されているが、1つの流れを整理して検証することはプログラミング以外の実生活でも問題解決に役立つはずと鳥井さんは述べる。
「本書はあくまでプログラミング的思考の入り口ですし、すべてを網羅しているわけではありません。ですが、絵本の良いところはプログラミング教育の最初のハードルであるデバイスの環境構築がいらないことです。対象年齢は5歳以上ですが、小学生や中学生でも問題ありません」
また、本書は子どもだけで読むのはもちろん、親子で読み進められる構成となっているのも特徴だ。こうした工夫は子どもにプログラミングをどう教えればよいかわからない学校の先生からも人気があるという。確かにプログラミング的思考をわかりやすく子どもに伝えるには本書は大いに役立つだろう。
「私は女性向けのプログラミング学習を広める活動に関わることが多いですが、この絵本は女の子向けということではありません。これで実際にプログラミングを始めるかどうかは別の話になると思います。ですが、女性であるリンダがこのような絵を描き、本を書いて発信するというのはプログラミングの世界の多様性の表れであり、この成果は次の世界への入り口になっているのだと信じています」
ルビィのぼうけん
こんにちは! プログラミング
リンダ・リウカス作、鳥井雪訳
翔泳社/1944円/2016年5月刊
「本書はお子さんだけでも読み進めることができますが、後半のパートでは“おどうぐ箱”という完全に大人向けの記述があります。ここでは、その練習問題が何のためにあるのかがわかる構成となっていますので、お父さんやお母さんと一緒に読み進めていただけるとうれしいです」
【News Eye】
ルビィの友だちには「雪ひょう」や「ロボットたち」など、どこかで聞いたことのあるキャラクターが登場する。ストーリーの本質とは関係ないし、わからなくてもまったく問題ないが、大人が読んでもくすりと笑わせられるセンスは秀逸だ。
【News Eye】
翻訳に際して難しかったことは英語圏では問題とならない「true/false(真偽)」や「バグ(本書ではおじゃま虫と訳出)」など。また、巻末にあるキーボードのひらがなと英字の対応表は日本版独自の内容で、子どもや親にも人気があるという。