変化の時代を自分らしく生きる──「プロティアン・キャリア」という生き方が、現代社会において新たな注目を集めている。心理学者ダグラス・T・ホールが提唱したこの概念は、組織の階段を上るような従来型のキャリアパスから脱却し、個人の価値観と成長を重視する新しい働き方を示している。
株式会社アルゴスの代表取締役・布川佳央氏の歩みは、まさにこの「プロティアン・キャリア」を体現しているといえるだろう。本記事では、布川氏がオンライン保険診療サービス「ヤックル」の開発を手がけるまでの軌跡を、取材から紐解いていく。
学生時代に積み重ねた改革と成功体験。PowerBook、そしてテクノロジーとの出会い
生徒会役員を務めていた中学生時代、友人の影響でMacintoshに魅了された布川氏は、両親へのプレゼンテーションを経て、当時30万円近くしたAppleのPowerBookを入手。そして、教員が手作業で行っていた資料作成業務を巻き取り、PowerBookで「ClarisWorks」を駆使して効率化したという。遊びたい盛りの中学生が、面倒ごと(教員の仕事)を買って出ること自体驚きだ。しかしこの経験が、テクノロジーを活用して非効率を解消するという、布川氏のライフワークの出発点になった。彼の“改革への情熱”は、中学生時代から芽生えていたのだ。
全校アンケートを利用したブルマの廃止など、さまざまな改革も生徒会の役員陣で実現。この成功体験は、「社会のルールは変えられる」という考え方を、布川氏にもたらしたという。そして、高校では複数の同好会を起ち上げるなど、行動力にさらなる磨きをかけていった。
約3年のフリーター生活。そのすべてを学びと経験に変え、エンジニアとしてキャリアをスタートさせた
高校は県内でも有数の進学校だったが、布川氏は大学に進学せず、多様な経験を通じて視野を広げることを選択。まず試したのはアルバイトだ。東京タワーのガラス清掃から建設現場や工場での作業、レストランスタッフなど、とにかく幅広い職種を経験。そしてお金が貯まると、新潟からウラジオストクまでフェリーで移動し、シベリア鉄道でイギリスまで旅したという。
「高校卒業から3年くらい、フラフラしていました。ただ4年目を迎え、そろそろ何かしなければと焦りも感じてきたのです」(布川氏)
経験を集約させるときがきた。でも何をすればいいのか。布川氏は、専門的な知識を突き詰めるのではなく、ジェネラルスキルを獲得すべきだと考え、青山学院大学の経営学部第二部(夜間部)に進学する。また同時に、日中は派遣社員のITエンジニアとして働き始めた。
当然エンジニアは未経験だったが、ITバブルの時代背景と、CCNA(Cisco Certified Network Associate)などネットワーク系の資格を複数取得したことで、キャリアは順調にスタート。そして、ネットワークエンジニアからインフラ設計、さらにはサービスマネジメントエンジニア、セキュリティコンサルタントへと、着実にスキルを積み上げていった。この過程で培われた「無駄や非効率を排除し、価値を創造する」という姿勢は、のちの起業にも大きな影響を与えることとなる。
ヤックルの起源は、歯科医師の父から得た学び。そして、介護現場で発見した医療の“無駄”
現在、布川氏が手がけるのはオンライン保険診療サービス「ヤックル」だ。しかしここまでの経歴は、医療に結びつくものが何もない。なぜ、オンライン保険診療サービスに目をつけたのだろうか。
医療への関心は、歯科医師だった父親の影響が色濃い。保険制度の制約がある中、利益や評価ではなく、患者に最適な治療を追求していた父親の姿勢は、布川氏の医療に対する価値観の礎となっている。その価値観をもとに作り上げたのが、慢性疾患患者を支援する新たな医療サービス「ヤックル」だ。
「介護系の仕事に携わっていたこともあるのですが、当時、医療の“無駄”を強く感じていました。たとえば、高血圧の薬を飲んでいるおじいちゃんが、薬をもらうためにヘルパーさんとタクシーで病院に行って、医師と一言二言話して処方箋をもらって帰ってくる、といったような例が溢れている。これ、本当に病院に出向く必要があるのだろうか、と。また、私自身が高血圧、高コレステロール、痛風という3つの生活習慣病を抱えています。だからこそ、薬をもらうためだけに通院することの手間を痛感しているのです」
布川氏は、これをDXで解決しようと考えた。
日本が抱える医療費の問題。解決の鍵は「重症化予防」にある
また、課題は患者の手間だけではない。「2023年で47兆円を超えた医療費は、日本の経済成長を妨げる1つの要因となっています」と布川氏は指摘する。そして、その6割以上が高齢者の医療費であり、その医療費が発生している理由の半分が、慢性疾患を放置して重症化させてしまったことにあるというのだ。
40〜50代のころに健康診断を受け、適切に治療を受けていれば重症化は防げた。しかし、ほとんどの人がさまざまな理由で病院に行かず、あるいは行けず、動脈硬化や脳疾患、心臓病、がんといった生活習慣病を悪化させてしまう。その結果、寝たきりになったり、長期入院が必要になったりして、莫大な医療費が発生している。
「国も慢性疾患の重症化予防に力を入れ始めていますが、予防意識を高く持てる人が少ないのが現実です。だから、その課題に切り込みたい。課題の深さも社会的意義も十分にある、そう確信してヤックルの開発を決めました」
ヤックルは「LINE」アプリからオンライン診療を提供。薬は薬局不要で自宅のポストに届く
ヤックルが提供するのは、22時まで利用できる「LINE」アプリからの問診とオンライン診療、そして薬の自宅配送である(最寄りの薬局でも受け取れる)。
ただ、オンライン診療には独自の課題がある。たとえば、当事者は単なる腹痛だと思っていても、実は盲腸だったというケースだ。オンラインでは触診ができず、すべてが自己申告になるため重要な症状を見落としかねない。そこで、ヤックルでは自宅血液検査キットも用意している。
「リモートで受診するだけだと、結局、検査のために来院をお願いすることが多々あります。それでは課題の根本的な解決には至りません。そこで考えついたのが自宅検査キットです。自宅で検査し、リスクが低いとわかった患者さんは、病院に出向く必要はなく、そのままオンライン診療をベースに治療を続けることができます」
ヤックルによって、“病院に行かない”働き盛りの40代、50代の人たちが生活習慣病を重症化させるリスクを減らすことができる。その仕組みが評価され、銀行などとも連係し、健康経営に取り組む企業への導入も進んでいる。また、地域医療機関との連係体制を整え、必要に応じて対面診療への橋渡しも行っているという。
日本の医療システムを持続可能な“あるべき姿”に立て直す
布川氏が描く未来図は、医療システム全体の持続可能性を高めることにある。生活習慣病の対面診療を補完する形でオンライン診療を提供し、適切なレベルの医療を患者に届ける。オンライン診療であれば、患者が抱える「時間」や「場所」の問題も解決可能だ。さらに、医療データの活用や医師の評価制度改革など、医療の根本的な仕組みを変える挑戦にも着手していくという。
2023年12月のサービス開始以降、ヤックルは全国から支持を集めている。特に、ビジネスパーソンや医療機関へのアクセスが困難な地域の住民からの反響は大きい。今後は自宅での心電図や尿検査への対応も予定しており、さらなるサービスの拡充が期待できる。
布川氏の歩みは、変化を恐れず、むしろそれを成長の機会として捉えるプロティアン・キャリアの本質を体現するものだ。その結実たるヤックルの事例は、単なるビジネスの成功を超えて、日本の医療システムに新たな可能性を示している。「続けるべき人が続けられる、あるべき医療を作る」という考えのもと、布川氏とヤックルの挑戦は今後も続いていく。
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著者プロフィール
徳本昌大
広告会社でコミュニケーションデザイナーとして働いたのち、経営コンサルタントとして独立。複数のベンチャー企業の社外取締役やアドバイザー、ビジネス書の書評ブロガーとして活動中。情報経営イノベーション専門職大学特任教授。