※この記事は『Mac Fan 2019年8月号』に掲載されたものです。
iOS 12.1で追加された絵文字の中で、「そろばん」が話題になっている。このようなそろばんは、人類の歴史上存在したことがないのではないか? 一部の人がそのように指摘しているからだ。
本当に、Appleの絵文字のようなのそろばんは実在するのか。これが今回の疑問だ。
五玉2、一玉4のそろばんは歴史上存在しない…?
iOS 12.1から、新たに157個の絵文字が利用できるようになった。人では、赤毛、カーリーヘア、白髪、スキンヘッドなどが追加されている。絵文字はユニコードによって内容のみが定められ、具体的なデザインは各社に任されているのだが、この中で、Appleがデザインした「アバカス」(そろばん)がおかしいのでは?と問題になっている。
事の起こりはあるネットワーカーのツイートだった。Appleのそろばんは五玉が2つ、一玉が4つという構造になっている。この絵文字に対して、「五玉2、一玉4のそろばんは歴史上で果たして使われたことがあるのだろうか。ギリシャやローマでは五玉1、一玉4を使っていた。中国では五玉2、一玉5を使っていた(10進法と16進法)。日本では中国の五玉2、一玉5を韓国経由で受け入れて五玉1、一玉5とし、近代では五玉1、一玉4を使っている。ロシアでは10(真ん中の2つは色がついている)。ヨーロッパでは線上に9つのコインを並べる…」とツイートしたのだ。
専門家からも「五玉2、一玉4のそろばんというのは存在しなかったのではないか」と反応があり、さらには「横置きにしていること自体が間違い。中国のそろばんは5玉を上にして使う」というコメントもついた。
他社の「そろばん」絵文字にもおかしな点がある
各社の絵文字のそろばんを見てみると、ほかにもおかしなものがある。MicrosoftとFacebookは五玉1、一玉4の日本の近代そろばんになっていて問題はない。また、Googleの横向きのそろばんはロシアやヨーロッパで使われているものだ。これも問題はない。
ところがTwitterの絵文字のそろばんは横向きであり、6つの玉がある。右端の玉は離れているので五玉であり、五玉1、一玉5の日本の旧式そろばんなのかもしれないが、それにしては仕切りがなく、向きも横であり、子ども用の玩具などを除いて、このようなそろばんも歴史上存在しなかったのではないかと思える。
さらに、Samsungの絵文字のそろばんも不思議だ。一見ロシアの横向きそろばんに見えるが、よく見ると玉数が7つ。ひょっとして8進法用なのではないかと話題になっている。
もちろん、絵文字なので、誰が見ても「そろばんだ」とわかるのであれば絵文字の役割は果たしていて、正確である必要はないという意見もある。しかし、それにしてもAppleのそろばんは問題が多すぎるのではないかというのだ。デザイナーの頭の中で、中国と日本とロシアのそろばんがごちゃごちゃに混ざってしまったのかもしれない。
そろばんは基本的に10進法。しかし中国だけが16進法だった
Appleの絵文字デザイナーの擁護をしておくと、ほかの国のそろばんはすべて10進法であるのに、中国のそろばんだけが16進法だ。つまり、16進法の計算ツールが存在するということがデザイナーの頭にはなかった可能性もある。
しかし、近代になるまで16進法だけでなく、2進法、4進法、8進法といった2進法系列は意外に身近な存在だった。特に重さに関しては16進法がよく使われていた。中国では1斤=16両という重さの体系を使っており、そのため16進法が計算できるそろばんが必要になったのだ。なお、欧米圏でも1ポンドは16オンスだ。
10進法世界から見れば、なぜ重さの世界では複雑極まりない16進法が使われるのかと不思議になるかもしれないが、それは実用性を考えれば明白である。
16進法が生まれた背景。欧米の「オンス」と同じ、中国の「両」の考え方
たとえば、ここに1斤の小麦粉をこねた丸餅があるとする。これを公平、正確に分割する方法は半分に切ることだ。半斤の塊が2つできる。さらに小さくしたい場合は、半斤をさらに半分にする。4分の1斤の塊が4つできる。それでも大きすぎるときはさらに半分にする。こうすると8つ。さらに半分にして16個。これを16分の1斤と呼ぶのはかなり面倒なので、中国では1両と呼び、欧米では1オンスと呼ぶ。
ホールケーキやスイカを切り分けるときのことを考えてみていただきたい。多くの場合、半分にして、さらに半分にして、もう一度半分にして8分割することが多いのではないだろうか。目分量で正確に分割するには「半分」がやりやすい。そこで、重さの世界では2進数系列が使われるようになる(最近ではケーキなどを奇数等分するガイドアプリもある。App Storeを探してみてほしい)。
通貨の世界でも2進法系列が使われた。歴史時代の通貨は、貴金属の重さで価値が決まったため、量と同じように分割しやすかったからだ。日本も江戸時代は1両が4分であり、1分は4朱と4進法が使われている。10進法が主流である現代から見ると、不合理な体系のように見えることもあるが、当時はきわめて合理的なシステムだったのだ。
2進法系列は、人間の身体感覚に即した体系だった。それが「計って分割する」という身体動作を用いなくなっていき、机の上で計算をすることが多くなると、合理的な10進数に改められるようになっていった。その消えかかっていた2進法系列が、コンピュータの登場で再び注目されるというのは、歴史のあやと呼ぶほかない。
実はたびたび起きているAppleの“絵文字問題”。いっそ、「Apple製そろばん」をお土産化してもいいのでは?
Appleは絵文字ではいろいろと問題を起こしている。今回のそろばん問題はAppleのうっかりとも言えるが、それでも誰もがそろばんと認識できるのだから、深刻な問題ではない。指摘をしているネットワーカーたちも、批判というよりは、楽しい話題のひとつとして扱っている。一方で、iOS 8.3で修正した「人種の多様性を考慮していなかった肌の色」のような深刻な問題もあったが、こちらはAppleは迅速に修正をした。また、ベーグルの絵文字もクリームチーズが描かれてなく「食欲をそそらない」という批判を受けて修正を行い、クリームチーズ入りベーグルとなった。
最近では、イカの絵文字が米国のモントレーベイ水族館から間違っていると指摘されている。Appleの絵文字では、イカの漏斗部分があたかも擬人化された鼻のように描かれているのだが、本来は頭の裏側についている器官だという。
絵文字デザイナーの観察眼が足りないと言ってしまえばそれだけのことだが、このような指摘がある中で、森羅万象を絵文字でデザインしなければならないデザイナーは大変だと思う。
そろばんやイカはいつか修正されるのだろうか。いっそのこと、絵文字どおりのそろばんを製作して、スーベニアショップで「Apple製そろばん」として発売したらいいのに、と思うのは私だけではないはずだ。Appleのロゴ入り、無垢アルミ削り出しであれば、多少高くても私は購入する。
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著者プロフィール
牧野武文
フリーライター/ITジャーナリスト。ITビジネスやテクノロジーについて、消費者や生活者の視点からやさしく解説することに定評がある。IT関連書を中心に「玩具」「ゲーム」「文学」など、さまざまなジャンルの書籍を幅広く執筆。