前回に続き、フィリピンのセブ島での英語留学の話。このタイミングでそれを敢行したのは、人生を賭けたある目的のためだった。
その話をする前に、ぼくの英語との出会いについて書いてみたい。
まず幼少期までさかのぼってみよう。当時の日本にしては珍しく、父親が英語を話すことができた。北米や欧州に頻繁に海外出張に行っていたこともあり、我が家では日常的に英語が飛び交っていた。
今でも鮮明に覚えているエピソードがある。小学校入学のお祝いで、祖父から地球儀をもらったぼくに、父親が日本の位置を教えてくれたとき、ぼくは衝撃を受けた。
「え……こんなに小さいの!?」
当時のぼくにとって、近所や親戚が住む街が〝世界〟で、日本の国土なんて壮大すぎてイメージできないほどだったのに、世界における日本のサイズに、大きなショックを受けたのだ。そんなぼくの驚きを受けて父はこう言った。
「ダイスケ、日本語はこの小さな島国でしか通用しないんだよ。だが世界の大半の人たちは英語がわかる。だから俺は英語を勉強したんだ」
体の中で何かが破裂した音がした。幼少期から束縛や制約が嫌い。家にずっといるのも嫌いで、真っ暗になるまで外で遊んでいた。家族からは〝異常なほどの自由人〟と揶揄されていたぼくの心に、「日本語しかできない=自由になれない」というビジョンが埋め込まれたのだ。
小学生になってしばらくすると、自分の意思で、近所の家で個人的に行われている小さな英会話クラスに通うように。中学校に入る直前から、母親のバイリンガルの友人による英語の個人レッスンを開始。これも自ら希望してのこと。
ちなみにぼくは、ずっと学校が嫌いで、生き生きするのは休み時間と放課後のみ。授業で好きなのは、体育、図工、美術だけという、典型的な勉強嫌いのタイプだった。
ほとんどの友人たちは、小学校の頃から塾に通っていたが、当然ぼくは、そういったものは拒否。親友がいるという理由で、かろうじてソロバン教室に通ったことはあったが、それもやはり続かなかった。
そんなぼくが、英語だけは好きだと思えて、ちゃんと勉強していたのである。中学と高校の成績も、英語だけは学年で常にトップクラス。そして、高校3年生で念願の1年間の米国留学へ。海外留学は、実は小学校の頃から抱いていた夢だった。
きっかけは、小学校5年生のときに、家族でアメリカ西海岸へ行ったこと。ぼくにとっての初の海外体験だ。80年代初頭のカリフォルニアは、世界中が憧れる特別な存在。〝自由の象徴〟のような場所だった。ポップでレイドバックしたその世界感に、幼かったぼくは強烈な衝撃を受けた。
広い、カラフル、豊か、オープン、自然、スロー、そしてフリーダムといった、圧倒的に魅惑の空気感が、そこにはあった。
かたや当時の日本は、高度経済成長期の雰囲気を色濃く残す、異常なまでの競争社会で、学校は型と枠にはめるためのガチガチ教育。バブル前夜の街は日々開発が進み、見渡す限りコンクリート色で、人とモノに溢れて混雑を極めていた。(次回へ)
※この記事は『Mac Fan 2016年11月号』に掲載されたものです。
著者プロフィール
四角大輔
作家/森の生活者/環境保護アンバサダー。ニュージーランド湖畔の森でサステナブルな自給自足ライフを営み、場所・時間・お金に縛られず、組織や制度に依存しない生き方を構築。レコード会社プロデューサー時代に、10回のミリオンヒットを記録。Greenpeace JapanとFairtrade Japanの日本人初アンバサダー、環境省アンバサダーを務める。会員制コミュニティ〈LifestyleDesign.Camp〉主宰。ポッドキャスト〈noiseless world〉ナビゲーター。『超ミニマル・ライフ』『超ミニマル主義』『人生やらなくていいリスト』『自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと』『バックパッキング登山大全』など著書多数。