2025年1月末、中国の新興企業DeepSeekがオープンウェイトで公開した大規模言語モデル「R1」は、世界の金融市場に大きな衝撃を与えた。その結果、「DeepSeekショック」と呼ばれる事態が引き起こされている。
NVIDIAをはじめとするAI関連企業の株価は軒並み下落した。米国のテクノロジーセクター全体で、時価総額が1日で1兆ドル以上消失している。しかし、その混乱の中、Apple株は下落どころか3%以上の上昇を記録。競合とは対照的な動きを見せた。

DeepSeekショック下でもApple株が評価された背景
市場は、なぜDeepSeekショックの中でAppleを評価したのか。その背景には、この出来事がもたらしたAI市場の新たな潮流と、AppleのAI戦略との親和性がある。
R1は、ベンチマークでOpenAIの推論を強化した先端モデル「o1」に匹敵するスコアを示した。そして、AI市場に衝撃を与えたのは、その開発・運用コストの劇的な低さだ。米AI大手は、先端的なAIモデルの開発に1億ドル以上を費やしている。一方、DeepSeekは10分の1以下のコストで基盤モデルを訓練したとされる。
それまで多くのAI開発者の間では、トレーニングに使用するデータ量や計算リソースを増やせば増やすほど高性能なモデルになると信じられてきた。それに従い、米AI大手は巨額の投資を続けてきた。しかし、R1はその常識を覆す成果を出している。結果として、投資家はクラウドAIや半導体企業の将来性に不安を覚え、市場全体でAI関連銘柄の売りが加速したわけだ。

「蒸留」が促すAI開発の民主化と普及への期待
DeepSeekは、モデル開発について“蒸留”を用いたと説明している。蒸留とは、事前学習済みの高性能なAIモデルから、知識のエッセンスを別のモデルに移転させる学習プロセスを指す。
たとえるなら、長年にわたって膨大な知識を蓄えてきた教師から、学生が重要なポイントをノートにまとめて効率よく学ぶイメージに近い。この手法を用いることで、一から大量のデータを学習することなく、コンパクトで高性能なモデルを構築できる。
蒸留に関しては、知財や倫理面での議論、大規模モデルの開発インセンティブ低下や品質保証への懸念がある。一方、最先端のAIモデル開発における参入障壁を下げるのも事実だ。巨大テック企業以外からの競争とイノベーションを、促進する可能性がある。
多くの研究者や開発者は、後者の「AI開発の民主化」や「大規模AIモデルのコモディティ化」に大きな期待を寄せている。特に、計算資源の制約により、これまで最先端のAI開発に関与できなかった中小企業や研究機関にとって、蒸留技術は影響力のあるソリューションになり得る。

DeepSeekとAppleに共通する“AI常識破り”の姿勢
Appleは近年、他社ほど巨額のAI投資を行っていない。そのため、「AIブームに出遅れている」と批判されることもあった。しかしDeepSeekショックにより、「Appleは過剰な投資を避けた」と肯定的に捉え直されている。
また、Appleは長年ユーザのプライバシーを保護するために、AI処理をデバイス内で実行し、個人データをクラウドに送らない方針を貫いてきた。
2024年、Apple Intelligenceを開始した際も同様だ。デバイス内で処理できないAI機能については、エンドツーエンドのプライバシー保護を取り入れたApple独自のクラウドシステムに計算をオフロードする「プライベートクラウドコンピューティング」を導入。ユーザのプライバシーを最優先にAI体験を提供する。
つまり、Appleは「AI=クラウド」という常識を覆そうとしているのだ。その点で、DeepSeekショックと同じ潮流にある。
そして、DeepSeekが実証した小型・高性能モデルの可能性は、AppleがこだわるオンデバイスAIの実用性を広げるものだ。実際、2025年1月末の決算説明会において、ティム・クックCEOはDeepSeekについて「一般的に効率を促進するイノベーションは良いことであり、そのモデル(DeepSeek V1/R1)にはそれが表れている」とコメントした。
DeepSeekの著作権問題が浮き彫りにしたAppleの強み
DeepSeekはR1の開発において、競合モデルの開発への使用が禁じられているChatGPTの出力を無断利用した疑いで非難された。しかし、これは裏を返せば、ユーザデータがクラウドAIに吸い上げられるリスクが改めて注目されたともいえる。
Appleは、かねてより「ユーザの個人情報ややりとりはモデル訓練に使用しない」と約束し、デバイス内処理でプライバシーを守る方針を採っている。DeepSeekの件で他社AIへの不信感や規制機運が高まれば高まるほど、「ローカルAI=プライバシーフレンドリー」というAppleの戦略の正しさが際立つ。
今後、ユーザがデバイス上で完結するAI体験を一層求めるようになれば、Appleにとって大きな追い風となるだろう。
AI時代に際立つAppleシリコンのメモリ優位性
そしてもう一つ、今日のAI市場において、ApplシリコンのユニファイドメモリアーキテクチャがAppleを際立つ存在にしている。AIモデル、特に大規模言語モデルや画像生成モデルでは、GPUの処理性能以上に潤沢なメモリが重要となる。パラメータと中間データを保持し、バッチ処理と並列処理を効率化するためだ。
たとえると、AI処理ではたくさんの資料(モデルのパラメータや入力データ)を机(メモリ)に広げる必要があり、より広い机のほうが作業効率が上がる。小さな机での作業は困難で、広さの違いで生じる差が非常に大きい。
現在、パソコンでのAI実行にはディスクリートなグラフィックスカードが用いられている。
NVIDIAのGeForce RTX 50シリーズのVRAMは、最大32GB。ワークステーション/サーバ向けの「NVIDIA RTX PRO 6000 Blackwell」でも最大96GBである。
それに対し、M3 Ultraを備えた最新の「Mac Studio」は、最大512GBのメモリを搭載可能だ。CPU、GPU、Neural Engineが同じ高速メモリプールを共有するため、すべてをAI処理に割り当てることはできないが、より多くのメモリをAIタスクに利用できる。

“大規模AIモデルのローカル実行”をめぐる競争が本格化
Macのユニファイドメモリなら、128GBや256GB、さらには512GBといった容量を単一マシンで確保できる。これは「より大きなAIモデルを丸ごとメモリに乗せて動かせる」ことを意味する。つまり、従来のパソコンでは実現困難だったスケールのAIモデルの実行が、Mac一台で実現するわけだ。
こうしたユニファイドメモリの利点により、AI研究・開発コミュニティでMacへの関心が高まっていた。それでも、最先端の巨大AIモデルを手元のパソコンで動作させるのは依然として難しい。しかし、大規模モデルを「蒸留」することで、より高度なAIのローカル実行が可能となった。
とはいえ、現在のAI開発環境はNVIDIAを中心に回っていると言っても過言ではない。NVIDIAが提供するCUDA(並列GPUコンピューティングプラットフォーム)および関連ライブラリ群(cuDNN、TensorRTなど)は、ディープラーニングフレームワークや研究コミュニティで事実上の標準になっている。

AI開発環境の遅れを克服するAppleの取り組み
一方、Appleはシリコンレベルでの強みを持つものの、AI開発におけるソフトウェアエコシステムでは後発である。低レベルGPUプログラミング環境としてMetalを提供しているが、汎用機械学習用途での成熟度や普及度において、その差は大きい。
これはAppleにとって大きな課題だが、近年この差を縮めるべく互換レイヤーやMLフレームワークの整備を進行中だ。まだ改善の必要性は多く残されているが、今後数年で、開発者が主要フレームワークをMac上でスムースに動かせる環境が整えば、Appleの競争力は向上すると期待される。
特にローカルでのモデル実行や中規模モデルの開発・チューニングといった用途において、Macは重要なポジションを築く可能性がある。

DeepSeekが壊した均衡、Appleに巡る新たなチャンス
AppleがAI市場の競争で主導権を握るには、依然として技術・エコシステム面での課題が数多く残されている。
しかし、DeepSeekが示した低コスト高性能モデルの可能性は、Appleが目指す未来と一致するものだ。クラウド依存から脱却し、AIの民主化を推進する流れが強まれば、Appleは単なる追随者ではなく、モバイル・パソコン領域でオンデバイスAIにおいて独自の土俵を築ける可能性を秘めている。
DeepSeekショックがもたらした市場の混乱を、Appleが自らの優位性へと転換し、開発者に選ばれるプラットフォームとなれるか。それがAI市場における今後の焦点となるだろう。
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