最近、ニューヨークタイムズのベストセラー「Bad Blood: Secrets and Lies in a Silicon Valley Startup」という本を読了しました。今年5月に出版され、IT業界で話題になった一冊。タイトルに“秘密と嘘”とありますが、シリコンバレーの「セラノス(Theranos)」という企業を取り上げた暴露本です。
セラノスは、スタンフォード大学を中退したエリザベス・ホームズが2003年に起ち上げた医療系ベンチャー。患者の指先から採取した微量の血液で多数の血液検査を迅速かつ安価にできるという触れ込みで、長年シリコンバレーの注目を集めてきました。その推定評価額は、一時90億ドル(単純換算で9000億円)にまで上ったそうです。
そんな待望の企業が疑惑の企業へと一変したのが、前述の書籍の著者でもあるジョン・カレイルーによる2015年のウォールストリートジャーナル(WSJ)の記事でした。表向きは順風満帆のように見せかけながら、実は同社の機械は不正確で実用化には程遠いことが明らかに。それどころか、不備を知りながら顧客の血液検査を続けていたという完全なる詐欺でした。
なぜ長年詐欺が暴かれなかったのか。スティーブ・ジョブズを崇拝し、黒いタートルネックまで真似ていたホームズのカリスマ性もありますが、ビジネス業界の落とし穴に巧みに付け込んでいました。たとえば、「彼が投資しているなら」と右向け右で投資が集まるシリコンバレーの投資の実態を使って投資家には元国務長官や著名実業家の名を連ねました。
また、大型スーパー「セーフウェイ(Safeway)」や大手ドラッグストア「ウォルグリーン(Wallgreens)」とパートナーシップを提携。医療業界に革命を起こす“はず”の血液検査を我が物にしたい一心で、プロダクトがないにも関わらず巨額の資金を投資。競合に先を越されてはたまらないという各社の“FOMO (Fear of Missing Out)”に付け込んだのです。
創業から15年が経った今年3月、セラノスは米証券取引委員会(SEC)に詐欺罪などで提訴されました。暴露本には、同社が内部告発を次々ともみ消してきた様子、また記者を脅すなどあらゆる手を使ってWSJの記事をもみ消そうとしたエピソードが描かれています。カレイルーは、ホームズのことを善悪の区別がつかなくなってしまった“サイコパス”だと表しています。
「少年よ大志を抱け」とは言ったものですが、セラノスのような結局何のイノベーションも起こさなかった一見派手なデバイスより、地味でも課題を確実に解決するアプリのほうが価値をもたらしていることは往々にしてあります。最近遭遇した一例が、「マーシー・バーンズ(Mersey Burns)」というアプリです。
重症な火傷を覆った患者には蘇生輸液が必要ですが、従来その量は医師が自ら計算していました。ただでさえ慌ただしい救急外来の現場で人的ミスを防げるのならと、元軍隊にいた男性が開発。数値は、患者の年齢や体重に加えて、火傷を覆った体の面積が必要。画面に表示された人型を指でなぞるだけで面積を指定できるアプリは、2011年のリリース以降いまだに医療現場で使われています。
きっとこのアプリを耳にしたことがある人は、一部の医師に限られるでしょう。メディアで引っ張りだこになったり、巨額の資金が動いたりすることもない。でも、医療現場における特定のニーズを確実に捉え、それに応えています。Bad Bloodを読んで、そんな地に足のついたソリューションこそ賞賛されるべきなのかもしれないと思いました。
Yukari Mitsuhashi
米国LA在住のライター。ITベンチャーを経て2010年に独立し、国内外のIT企業を取材する。ニューズウィーク日本版やIT系メディアなどで執筆。映画「ソーシャル・ネットワーク」の字幕監修にも携わる。【URL】http://www.techdoll.jp