「健康」の次の一手
ウェアラブルデバイスやスマートウォッチを身につける動機として有効なのは「自分の体のことを知ること」だ。「フィットビット(FItbit)」 や「ジョウボーン(Jawbone)」などのアクティビティトラッカーから市場が始まったことも、アップルがワークアウトにこだわっている点も、運動そして健康というテーマが私たちにとってもっとも身近で重要であるからだ。
アップルは自前の研究施設で、運動に関するさまざまなアルゴリズムを開発し、ついには水泳の泳法や車いすの漕ぎ方までアップルウォッチ(Apple Watch)で検出できるようにしてしまった。多種多様な運動の検出を行うのは、すべて正確なカロリー計算のため。そして、さらなる発展が期待できる運動計測に加えて、ウォッチOS3(watchOS 3)とiOS 10からはアップルが取り組む「次の領域」を見つけることができる。それは、睡眠と心だ。
睡眠は、これまでのアクティビティトラッカーでも人気のある機能だった。睡眠時間やレム睡眠/ノンレム睡眠から、自分の眠りの時間と質を可視化することができる。しかし、アップルウォッチはバッテリ持続時間と、時計という形態から睡眠計測にはふさわしくないデバイスだ。
その代わり、iOS 10の「時計」アプリには「ベッドタイム」という新たな機能が追加された。睡眠時間と起床時間を設定して、より良い睡眠習慣をサポートしようという試みだ。就寝時間になると通知が届き、起床時間にはこれまでと異なる専用のサウンドで、心地よい目覚めを演出してくれる。アラームを止めると、「ヘルスケア」アプリに睡眠時間が記録される。スマホが生活に密着する現代人にとって、スマホで睡眠管理を行うことは理にかなっている。もちろん、眠りの深さまではまだ測れないが。
もう1つの領域、「心」は複雑だ。運動のカロリー量や睡眠時間のような定量的な可視化ができないからだ。アップルは、「呼吸」アプリをウォッチOS 3に導入し、心拍数を取りながら定期的にゆったりと呼吸を行う習慣を作り出そうとしている。iPhoneのヘルスケアアプリでは、「マインドフルネス」の項目に、深呼吸の時間数が記録されていく。このマインドフルネスとは何か、そして呼吸とどのような関係があるのだろうか。
マインドフルネスという概念
マインドフルネスは、シリコンバレーでは2013年頃からブームとなった。5年前に亡くなったアップルの共同創業者、スティーブ・ジョブズ氏が仏教に傾倒していたことで禅が広がり、米国におけるチベット仏教の人気も背景に、座禅や瞑想を取り入れる動きが広がってきた。そこから宗教的な要素を排除し、禅や瞑想を習慣に取り入れる動きに「マインドフルネス」という名前が付けられた。
今この瞬間に目を向けて現実を受け入れる時間を作ることで、心の安定や集中力の向上、ストレスコントロールといった効果を狙っている。グーグルが社員向けに取り入れていることで話題となり、 アップルも呼吸機能のデータを格納する項目に「マインドフルネス」という言葉を使っているように米国では当たり前になりつつある概念だ。
こうしたトレンド以前から、米スタンフォード大学でテクノロジーと心に関する科学的研究を行っていたニーマ・モラベジ氏は、マインドフルネスをテーマに「スパイアー」(Spire)を起業した。同社の小石のようなデバイスは、ベルトやブラジャーの内側に装着し、圧力を検知しながら呼吸のペースや深さを検出する、世界初のマインドフルネスアクティビティトラッカーである。
モラベジ氏は、自身の研究から、マインドフルネスと呼吸との関係に着目している。運動することや食べること、寝ることなど、体の状態とインタラクションについて研究していた同氏は、心理的な側面に興味を強めたという。心は計測が難しく、他の体の機能に比べて具体的なインタラクションの方法が確立されていなかったからだ。
「心の様子は目で見ることはできませんが、体の機能や行動といったあらゆることに影響を及ぼします。心理状態は心拍数や発汗などで体に表れますが、その中でも私たちが着目したのが呼吸です。その理由は、呼吸は自分でコントロールすることができるからです」
スパイアー(【URL】https://www.spire.io)共同創業者のニーマ・モラベジ氏。
いかに変化を作り出すか
スパイアーは、自分の体をより正確に計測するためのデバイスではない。ただ、自分の体がどんな状態なのかを知り、変化を作り出すことに焦点を置いている。たとえば、スパイアーはストレス状態を検出すると、本体が震えて教えてくれる。そしてアプリを開くと呼吸のペースがリアルタイムで可視化されており、心を落ち着かせてくれる一連のセッションを実行することができる。また、スマートフォンにある位置情報や写真、スケジュールなどの情報を活用し、毎日の生活における自分の心理状態を分析してくれる機能もユニークだ。たとえば、朝の会社の近くのカフェではいつも集中できている、この人とのミーティングはいつも緊張している、家の近所の池のある公園では落ち着ついている、などがわかる。
呼吸を整えるだけではく、シチュエーションによる心理状態を知ることができれば、明日の行動に変化が生じる。これもモラベジ氏が狙っている「変化を作り出す」ための工夫だ。
「機能性や生産性を目的としてマインドフルネスを取り入れようとすると、リラックスできていない状態、集中できていない状態が、恐怖に変わってしまうかもしれません。何か特別な行動ではなく、普段の生活そのものに役割を与えることができれば、習慣として定着していくことにつながると考えています」
スパイアーはベルトなどに挟んで使用する(右は、スパイアーの充電器)。本体にはセンサが内蔵されており、呼吸を忠実に計測。iPhoneやアンドロイドアプリから呼吸の回数やリズムを表示できる。価格は99ドル95セント。
ストレスは悪ではない
モラベジ氏は、グーグルの社員向けのマインドフルネスの取り組みや、アップルウォッチへのマインドフルネス機能の採用を歓迎している。この分野へ注目が集まることは、人々に自分の心との対話に取り組むきっかけを与えるからだ。しかし、その一方で、機能的な側面についての懸念も示す。
「マインドフルネスの文脈では、リラックスが善、ストレスが悪という印象を与えかねません。しかし、リラックスだから生産性が高いとは限りません。適度なストレスが、集中力を高めることもわかっているからです。そのためにはバランスやペースが重要であり、スパイアーは1日を通じた計測を行っています」
この話は、シリコンバレーのエンジニアや起業家から聞かれるようになった、マインドフルネスへの否定的な意見とも符合する。より広い視野で情報に触れることや、膨大な情報、活発に交わされるコミュニケーションからひらめきを見出すセレンディピティからは遠ざかる、というものだ。
また、機能性を追求する側面にも注意を促している。
「マインドフルネスは、タスクリストに入れるようなものではありません。今日はリラックスのための呼吸を5分やった、昨日はできなかった、ということに、大きな意味はないのです」
そのためスパイアーでは、1日の中での自分の心理を明らかにすること、改善をすることに焦点を合わせて、より恒久的な変化を作り出すアプローチを取っている。リラックスするための呼吸のタスクをこなせなくて、それがストレスになってしまっては元も子もないからだ。
情報過多とモバイル時代
我々の日々の行動は、意外と自分の意思と異なるところにあると感じている。スマートフォンの通知は、人々が行動を起こすきっかけとして、開発者にとって重要なツールとなっているが、その裏返しで、我々は通知をきっかけにスマホを手に取り、アプリを開くことが非常に多いのだ。マーケティング業界は、広告や購買のために、人々の行動を変えさせることを厭わない。
マインドフルネスの登場は、情報過多に対する反動と位置付けることができる。その一方で、マインドフルネスまでタスク化し、それを促す通知がスマートウォッチに届くようになったのが現在だ。
心理的な側面の理解から「より本質に迫る」ことを追求するスパイアーは、我々が自分らしく生きるためのテクノロジーを目指している。