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隻腕の射手

著者: 藤井太洋

隻腕の射手

イラスト/灯夢(デジタルノイズ)

曇り空が柔らかな陰影を落とすウランバートルの射場に、タンという音が響き、的(ターゲット)の中央に黒光りする矢が突き立った。

七〇メートル先では、車椅子に座った男が次の矢をつがえるところだった。おれは、その男─依頼人のボルジギン・バートルのところへ歩いていった。

徴兵されたバートルは南スーダンで右腕と両脚を失い、アーチェリーをはじめた。キャリアは二年だが二〇二〇年の東京パラリンピックに出るという。

口で矢をつがえたバートルはおれに目を留めて動きを止め、弓を掲げた。

「ジャンボさん、よく来てくれたね」

バートルの手はバンデージで弓に縛り付けられていた。爆弾の破片が脊髄を貫き、右腕の運動機能も損なっているため、弓と手の固定が認められているのだ。バンデージの代わりに使うグローブを、おれは持ってきていた。

「どうぞ。ルールに抵触しないように、手首はぶらぶらだ。Apple Watchは要望通り、薄い初代だ」

バートルは、差し出したグローブを親指で引っかけるようにして受け取り、ウォッチをペアリングはじめた。

「障碍者アーチェリーは選手層が厚いんだ。なんせパラリンピック自体、アーチェリーから始まったぐらいだ。だが、おれは向いていたらしいよ。まだ二年だが、健常者の世界選手権に出られるぐらいのスコアをとれる」

「健常者の大会に出たらどうだ?」

「椅子が使えないんだよ。連中に言わせりゃ、座るのは卑怯なんだとさ。実際、有利かもな。おれぐらいのスコアを持つパラの選手はあと二人いる。二〇二〇年、パラアーチェリーのスコアはオリンピックを超えるよ」

「厳しいね。それでこの発明ってわけか」

「その通り」と言ったバートルは手首をひねってウォッチに囁いた。「ヘイ、Siri。〈ロビンフッド〉を起動」

バートルはデータロガーを見てくれるよう頼んだ。とりあげたiPhoneの画面ではウォッチのS1チップから出力された数値が目まぐるしく書き換えられていた。〈ロビンフッド〉は、この数値をビートに変換して、タプティックエンジンで手首を叩く。

矢をつがえ、弓を構えた姿におれは感歎のため息を漏らした。二キログラムの弓は、水平に伸ばされた左腕の先で宙にピン留めされていた。もともと、それだけの技能をバートルは持っていた。〈ロビンフッド〉がそれを開花させたのだ。

バートルが舌で矢を保持するリリースエイドに触れると弦が唸り、七〇メートル先で微かな白い煙が上がった。遅れて、タン、という音が響く。

「十点」といったバートルへ、おれは「見えるのか?」と聞いた。七〇メートル先にある直径百二十センチの的は、伸ばした手に持つiPhoneのホームボタンよりも小さい。十点の円はiSightのカメラよりも小さいのだ。

「視力は先祖譲りだ」

笑ったバートルは弓を持った手を軽く差し上げた。凄いね、と言って的をすがめ見たおれの耳に、ロシア語が響いた。

「バートル、что ты делаешь(シト・チ・デライエシュ なにをやってるんだ)!」

「トレーナーのイワノフ・イサチェンコだ」と囁いたバートルは、ロシア語で言い返した。言葉は分からないが「ウォッチ」や「タプティック」などの単語と身振りで、ベルトを受け取ったと伝えていることは分かる。

歩いてきたイワノフは、おれに太い腕を差し出して、見事な英語で言った。

「ジャンボさん。このグローブとウォッチは使えない。悪いが、持って帰ってくれないか」

「そうなのか?」

「ドーピングだとよ」バートルが食いしばった歯の隙間から絞り出すような声で言った。「このクソッタレのせいで」

「ちょっと待ってくれ」おれはイワノフに身体を向けた。「確かに新しい機材はグレーゾーンになるだろう。でも挑戦する価値はないのか─」

「だめなんだ」イワノフは大きな手を振っておれを遮り、沈痛そうに眉をひそめた。「素晴らしい発想だが、わたしの、ロシア人トレーナーの元でバンデージの改良を行えば、テクノロジー・ドーピングだと思われてしまう」イワノフは肩を落とした。「四年もあれば、わたしの関与は否定できるだろう。二〇二〇年の大会には間に合わないが─」

「お前のせいなんだよ。クビだ! 荷物をまとめて国へ帰れ!」

バートルは肘で車椅子のブレーキを外し、くるりと回転させて弓を握ったまま射場から出て行った。

ぶ厚い背中を小さく丸めたイワノフが、おれに深々と頭を下げた。

「ジャンボさん、すまない」

翌年、おれは再びウランバートルの射場に立っていた。タプティックスコープが使えることになった、というのだ。

射場の端では車椅子に座ったバートルが、イーゼルのようなものの横で、弓を構えていた。その横に立っていた意外な人物に、おれは思わず声をあげた。

「イワノフさん!」

振り返ったイワノフは屈んでバートルになにか言った。バートルがこちらを向き、おれは言いかけた挨拶の言葉を飲み込んだ。

顔の上半分が布で覆われていたのだ。アイマスクを額にずらしたバートルの黒い瞳は、働きを止めていた。

「あんまり見えてないんだ」

「そう……らしいね」

「だから照準器が、タプティック・スコープが使える。グローブをくれよ」

グローブを受け取ったバートルは、ぎこちない動きでベルトを留める。じっと見ていたおれにイワノフが声をかけた。

「視覚障害者向けの照準器だよ。〈ニードル〉という」

指の先には地面に置いたアルミニウムの枠が立っていた。支柱が伸び、てっぺんからは横に棒が突きだしている。

「棒に手の甲を当てて角度を知るんだ。バートルはこいつで、視力を失う前と同じスコアを出せる」

「そして、それを超えていくんだよ」

イワノフの言葉を引き取ったバートルは、手の甲でイーゼルを払いのけて、口で矢をつがえた。躊躇いなく放たれた第一射が的の中央に吸いこまれていく。双眼鏡を覗くイワノフがスコアを読み上げるのを待たず、バートルは第二射、三射と続けていく。ものの一分もかからないうちに十二本の矢を全て十点の枠に射ちきったバートルはおれに顔を向けた。

「わざと視力を失ったんじゃないかって疑ってないか?」

「まさか」おれは首を振った。「そんなことをするわけが─」

「おれは事故だ。誓ってもいい。だが、おれが健常者の誰よりもいいスコアをとれば、やる奴は出るよ」

「まさか」と、おれは繰り返した。だが、声に力はこめられなかった。泳いだ目の先で、イワノフが「出るね」と口を開いた。「ジャンボさんへ同じ依頼が来るね」

「もちろん断るよ。このグローブはバートルのために作ったんだ」

「だめだ」とバートルが言い、身を乗り出してきた。「作ってくれ。このスコープは健常者の競技者やハンターの役にも立つ。製品化してくれないか。イワノフが広めてくれる」

「なんのために? 商売になるなら嬉しいが、競争相手に使わせていいのか?」

「条件を揃えればわかる」

バートルは、弓を的に向けて言った。

「おれが世界一のアーチャーだ」

藤井太洋

2012年、セルフパブリッシングの『Gene Mapper』でデビュー。『オービタル・クラウド』で第35回日本SF大賞、第46回星雲賞日本長編部門を受賞。