“アップルのキャッチコピーは、フレンドリーでパーソナル、それでいて知的なコピーばかりです”
二人三脚で活動
店頭やアップル公式WEBサイトで私たちが目にするアップルのキャッチコピーに関して、その魅力やテクニックについて解説されることはこれまでもありましたが、その制作現場は“秘密のベール”に包まれており、公に語られることはほとんどありませんでした。
フライヤー池田きみこさん(以下、池田さん)は、夫であるイギリス出身のダグラス H・フライヤーさん(以下、ダグラスさん)とともに、2006年から約5年間日本のアップルストア直営店および公式WEBサイトのキャッチコピー制作を担当するコピーライターとして活動しました。
キャッチコピーの原文は米国のアップルとその代理店で考案されたものですが、それを日本語で展開する際には単なる「翻訳」ではなく、コピーライティングのノウハウを駆使した「ローカライズ」と呼ばれる作業が必要です。具体的な内容に触れる前に、池田さんがこの仕事をするようになった経緯について話を聞きました。
もともとは広告代理店に勤務し、日本市場向けに日本語のコピーライティングをしていた池田さん。英語はそこまで得意ではなかったそうですが、1995年より海外勤務を命じられ、香港に渡ることになりました。主な業務は香港市場で日本のクライアント企業の広告を現地向けに置き換える「アダプテーション(Adaptation)」と呼ばれる内容です。一般的にアダプテーションは「適用」という意味ですが、「脚色、改作」という意味もあり、広告業界では後者の意味合いで用いられています。
当時の香港の公用語は広東語と英語のため、生活はもちろん仕事でも、高い英語力が必要となった池田さん。そのとき知人経由で英語の指導を依頼したのが、現在の夫であるダグラスさんでした。
「ダグラスは香港の大学やプライベート講師としてビジネス英語を教えていました。ただ母国語である英語が話せるというだけでなく、ライティングスキルに秀でていて、そのことがその後の仕事にもつながりました」(池田さん)
その後、台北勤務を経て200 1年に日本へ帰国した池田さん夫妻。勤務していた広告代理店が他社と合併して社風が変わってしまったことをきっかけに翌年に退社。英語の知識を活かしたコピーライターとして独立を決意し、フリーランスとしての活動を開始します。当初は慣れない字幕翻訳の仕事などに取り組みましたが、これは広告の知識がまったく活かせないとわかり方針転換、ビジネス翻訳の仕事を続けていたところ、突然降って湧いたのがアップルストアのコピーライティングの話でした。
「2006年5月頃にデザイン事務所を運営している広告代理店時代の知人から電話があって『某外資系企業が国内展開を本格化するのだけど、英語のキャッチコピーを日本語にしてくれるコピーライターを探している』と連絡がありました。競合(コンペ)だけど参加してみないかと誘われて、最終的には5~6人がプレゼンすることになりました。プレゼンのときまでその外資系企業がアップルだということを知りませんでした(笑)」(池田さん)
フライヤー 池田 きみこさん
広告代理店コピーライター、海外支社クリエイティブ・ディレクターを経て、2002年よりフリーランスに。現在、トランスクリエーション・ライター、和文コピーライターとして活動中。2006年から約5年間、夫であるダグラス氏とともに日本のアップルストア直営店および公式WEBサイトのキャッチコピー制作を担当するコピーライターとして活動。【URL】http://comuni.jimdo.com
ダグラス H. フライヤーさん
イギリス、リーズ市出身。大学では経営学専攻。香港バブテスト大学ビジネス英語講師、香港日系企業ビジネスコンサルタント、台北でのビジネス英語講師を経て、2001年来日。現在、英文コピーライター、トランスクリエーション・ライター、英会話講師として活動中。
アップルらしさを伝える
アップルがアップルストア直営店を銀座から全国へ本格展開しようとしていた時期に行われたキャッチコピーのコンペ。競合相手は「英語の得意な日本人コピーライターで、文意を読み取ったうえでひねりの効いた日本語キャッチコピーを出してくる」と予想した池田さん。そこで、あえてオリジナルの英語の語感を活かしたキャッチコピーを制作すべく、ダグラスさんへのヒアリングに加えて公式WEBサイトから米アップルのキャッチコピーの分析を始めました。ネイティブスピーカーの感覚として、ダグラスさんはアップルが制作する英文キャッチコピーを次のように捉えています。
「アップルのキャッチコピーは、奇をてらっていません。あくまでフレンドリーでパーソナル、それでいてクリエイティビティがあり、とても知的なものばかりです」(ダグラスさん)
ダグラスさんの力を借り、アップルのキャッチコピーの特徴を調べ上げた池田さんは、さまざまな切り口から30案以上のキャッチコピーを作成。そこから提案するものを段階的に絞り込み、最終的にA案とB案を当時アップルジャパンを受け持っていた広告代理店の担当者に提出しました。
「提示されていたアップルストアの英文キャッチコピーは“We can help you do it all.”というものでした。そこで私たちはA案(あなたの「したい」を、ぜんぶ「できる」にするために。)とB案(ブログ、ミュージック、Podcast、フォト、なにからなにまで私たちがサポートします。)を提出しました。クライアントであるアップルジャパンからはネイティブの言語感覚を活かして制作した点を評価してもらったようで、最終的にB案が選ばれました。アップルストア直営店は故スティーブ・ジョブズ氏の肝いりの事業でしたから、英語で表現された世界観がしっかり活かされているか細かく気にしていたのではないかと思います。このコンペを機に、すべてのキャッチコピー提案では、まずダグラスによるオリジナルの英文キャッチコピーについての分析を入れ、アップルの世界観を踏まえたうえでの提案であることを明確にしました」(池田さん)
採用されたキャッチコピーは、読みやすさなどを考慮して何度も微修正され、完成に至ったそうです。その後、店頭に置かれるリーフレット用に「ジーニアス」などのキャッチコピーも順次制作されていきました。
「場合にもよりますが、言葉の一つ一つを漢字にするのか、ひらがなやカタカナにするのかといった細かい作業もコピーライターの仕事です」(池田さん)
アップルストアのキャッチコピー「We can help you do it all.」に対して、コンペ用に30案以上の日本語キャッチコピーを考えた池田さん。A案とB案のうち、最終的にアップルジャパンが選んだのは、元の英語の語感を生かした「何から何まで、私たちがサポートします。」でした。微調整の段階で、読みやすくするために「何」をひらがなではなく漢字に変更しました。
クリスマスギフトシーズンに店内で配布される3つ折りのリーフレット。開いたときに最初に目に留まるiPodのビジュアルに添えられた英語のキャッチでは「Were they good this year?(この1年良い子にしていましたか?)」、さらにパンフレットを開くとMacBookが出て「Were they really, really good this year?(本当に、本当に良い子にしてましたか?)」と畳み掛ける仕組みでした。欧米では子どもの頃のクリスマスプレゼントを思い出す楽しいキャッチコピーですが、日本人には馴染みがないため、池田さんは日本人向けに「大切な人に贈りたいものは?」と「とっても、大切な人に贈りたいものは?」と訳しました。
リズム感を大切に
アップルストアのコピーをきっかけに、店内で展開されるポスターやリーフレットなどさまざまな英文キャッチコピーのローカライズを頼まれるようになった池田さんとダグラスさん。アップルから送られてくる多くのキャッチコピーには学ぶべきことが多く、またそれを忠実に日本の顧客に伝えるために苦心を重ねたといいます。
「シンプルでほぼそのまま訳出すればよいものもあるのですが、英語の『韻』を踏んだものなど難しいものもありました」(池田さん)
たとえば、“Simple to Switch”のような文章では、英語の場合はSとSが韻の関係にあたるので、そのまま日本語に訳しても本来のニュアンスが伝わりません。有名な例に「インテル、入ってる(Intel Inside)」というのがありますが、さすがにここまで見事なコピーはプロでも難しいとのこと。
また、英語には独特のリズム感があるため、それをなるべく活かした日本語にするには大胆に意訳する必要もあったといいます。
「たとえば、アップルストア直営店内に掲示されたiPodのポスターに“Decisions, decisions, decisions.”というのがありましたが、これを日本語で『決めよう、決めよう、決めよう』といっても単調になってしまい、意味もよくわからないですよね。英語のニュアンスでは、『たくさんの選択肢があるよ』という意味を楽しく愉快な印象で表現されているので、『比べて、選んで、手に入れよう』とリズム感を持たせたキャッチコピーにしました」(池田さん)
店内用のiPodポスターにある「Why stop at just one?(どうして1つで終わっちゃうの?)」のキャッチコピー。日本語では「ひとつ買うと、もっと欲しくなる。」とキャッチコピーがつけられました。iPodユーザの心理と知的な表現が印象的です。
学生向けのキャンペーンでは、そのままでは日本人の感覚に合わない表現であったため、意訳した「学割」という日本語特有の表現を効果的に用いて、よりアップルらしさを出すシンプルな日本語キャッチコピーとしました。
サマーキャンプの案内パンフレットでは、「ムービー、音楽、スライドショー。作品づくりから発表まで、いっぱい学ぼう。」という比較的ストレートな表現が用いられていました。アップルのキャッチコピーの特徴として、「時代に流されない」ということも大切なポイントです。
“製品やサービスについてわかってもらうのではなく、「アップルを伝える」ということに徹底しました”
門外不出のマニュアル
アップルのキャッチコピー制作には多くのコピーライターが関わっているはずですが、どのように「トーン・オブ・ボイス」を維持しているのかを尋ねたところ、アップルには部外秘のコピーライター向けマニュアルがあることを明かしてくれました。
秘密保持契約もあり多くは語れないものの、「アップルのキャッチコピーとはこうあるべき」というマニュアルが数十項目にまとめられ、それぞれの項目が優れたキャッチコピーとともに解説されているそうです。
「代表的なものとして『短く書き出す』というものがあるのですが、こうしたアップルが示すキャッチコピーに対するポリシーにはとても感銘を受けました。マニュアルに書かれている英文キャッチコピーにもひねりがあってクレバー、ジョブズ氏の言葉に対するこだわりやアップルのクリエイティブの奥深さを感じました」(池田さん)
また、アップルのキャッチコピーと5年間向き合ったことで、日本語コピーとの違いにも気がついたといいます。
「日本語のコピーは比較的その時代の言葉の影響を強く受けています。そのため、コピー年鑑などを読むと10年前のキャッチコピーでも意味が伝わりにくかったり、古く感じてしまうことがあります。しかし、その点アップルはブランドを伝えることに徹してシンプルに言い切るので、昔のキャッチコピーが今でも新鮮に感じます。“時代を追いかける”のではなく、“時代を創ってきた”アップルならではの素晴らしい仕事ですね」(池田さん)
また、紙のポスターやパンフレット以外にも、公式WEBサイトにあるアップルストアの日本語キャッチコピーの制作にも2人が関わっているそうです。
「WEBの場合はグローバル展開している関係もあり、基本的に同じレイアウトで固定され写真が少し変わるだけです。たとえば、当時のアップルストアのキャッチコピーである“Come to shop, Retuen to learn.”ですが、これもリズム感があって覚えやすいですよね。私たちはこれを『欲しいものも、学びたいことも。』としました。こちらはアップルストア直営店とも連動して頻繁に使っていただきました」(池田さん)
また、サービスだけでなく、iPhone 3Gのような製品に関するキャッチコピー制作をまかされることもあったそうです。当時のキャッチコピー案を見ると、同じ英文から数々の日本語を生み出していたことがわかります。
「短くシンプルに」というアップルのポリシーは「One to Oneトレーニング」のパンフレットにも見られます。英語ではすべて「Get」ではじまるキャッチコピーでしたが、日本語では同様の意味を示す簡潔なフレーズが採用されました。
苦しみながらひねり出す
ゼロからキャッチコピーを制作する場合でも、ローカライズの場合でも、キャッチコピーを考える際にはまず、できる限りの数を出すことが大切と池田さんは語ります。また、最初の思いつきにこだわらず、どんどんアウトプットしていかないと発展していかないとのこと。
「自分で気に入るキャッチコピーのアイデアが出てしまうと、4~5つの案で『まあ、これでいいや』となってしまいがちですが、これはよくありません。そこからさらに苦しんでひねり出すと、意外なアイデアが出ることがあります。いっぱい案を出してからちょっと間を置くと、お風呂に入っているときなどに突然アイデアがひらめいたりするのです」(池田さん)
一切の妥協が許されないアップルのキャッチコピーのローカライズですが、その仕事内容はかなり厳しかったと池田さんは当時を振り返ります。
「今は笑って話せますが、アップルとの仕事はかなり大変でしたね。広告代理店の人から『違う切り口でもう少し出してほしい』と言われて、泣きそうになりながらさらにひねり出すこともありました。しかし、あらゆる可能性を検討したからこそ、方向性を明確に絞り込めるのだと思います」(池田さん)
一見シンプルに見えるアップルのキャッチコピーが、このようにして生み出されていることを知る人は数少ないでしょう。しかし、裏方の仕事であってもブランディングを徹底するアップルの姿勢は、池田さんのその後の仕事にも大きな影響を与えたといいます。
「iPhone 3G」の店内ポスター用キャッチコピー。オリジナルは「How to get your iPhone 3G(iPhoneを手に入れるには)」というもの。シンプルなフレーズから何種類もの日本語キャッチコピーを生み出していることがわかります。原文にある「ゲット」が日本でもそのまま通用するため、原文を活かして「iPhone 3Gをゲットしよう。」となりました。
新しい概念の誕生
広告代理店とアップルジャパンの契約終了に伴い、アップルストアのキャッチコピー制作業務が終了した池田さんとダグラスさん。アップルとの仕事経験を踏まえて、自分たちにしかできない英語の翻訳能力を活かしたコピーライティングをさらに特化していくことを決意しました。
当時は業界の慣例に従い、自らの職種を「コピーライター」、広告のキャッチコピーの翻訳業務を「ローカライズ」と呼んでいましたが、現在はグローバル企業の進出に伴って使われるようになった「トランスクリエーション(翻訳を伴うコピーライティング)」という言葉を意識的に用いているそうです。
「最近、広告用語として定着してきましたが、今考えるとアップルとの仕事はまさにトランスクリエーションの先駆けといえる内容でした」(池田さん)
トランスクリエーションという新しい仕事の概念に適応した国内の翻訳会社はまだ少数ですが、海外では広まりつつあるそうです。
「特に欧米では、トランスクリエーションのエージェンシーも多くなり、世界各国に登録ライターをかかえ、24時間体制で営業しています。もし、読者さんの中でコピーライティングに興味があり、英文の読み書きに不自由しない方でしたら、ぜひトライしていただきたいですね」(池田さん)
〝キャッチコピーは、一目で受け手の興味を引きつけることが大切です〟
iPhone 3GとiPodシリーズが掲載されたカタログには、「Dicisions, decisions, decisoons.」といった英文キャッチコピーがつけられており、同じ言葉を繰り返すことで、リズム感や楽しさを表現しています。しかし、日本語では表現しにくいため、「比べて、選んで、手に入れよう。」と段階的に飛躍するようなリズム感を盛り込んでローカライズされました。
「iPhoto(現、Photos) 」のフォトブック機能につけられた英文キャッチコピーは「Celebrate Dads and Grads.」という韻を踏んだものでした。これをそのまま日本語にするのは難しいため、「お父さんに、鮮やかな思い出を贈ろう。」という日本語キャッチコピーを制作しました。