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死体農場

著者: 藤井太洋

死体農場

イラスト/灯夢(デジタルノイズ)

「ジャンボだ。デモを迂回していたら遅れちまった。黒人が殺されたのかい?」

勧められた椅子に腰掛けたおれは、漂う臭気を無視して握手を求めた。顔色に出ないよう気をつけていたが、向かいに座る依頼人は笑って、ポケットから出した消臭スプレーを宙に吹いた。

「今日がデモだったのか。ナッシュビルの郊外で警察官の腐乱死体が発見された事件だよ。もう容疑者は捕まったが、黒人警官だから捜査が遅れたんだろうって怒ってるのさ。とにかくこんな場所まで来てくれてありがとう。ボブ・カペロ、FBIのエヴィデンス・レスポンス・チーム(ERT)分析官だ」

カペロは壁の〈テネシー大学人類学研究施設〉と印字された金属のプレートを後ろ指で指してから言った。

「死体農場(ボディファーム)へようそこそ」

オフィスの窓から見えるコンクリートのひび割れた駐車場に停まっているのは、空港で借りてきたフォードと赤いマツダが二台だけ。五十名ほどの職員がいるはずなのだが、誰も自分の車を停めてはいない。

奥の森から漂う腐敗臭のせいだ。

森には常時二十体の献体が様々な環境で放置されていて、死体にとりつく虫や、変化していくガスの組成などを調べているのだという。

「ERTって、科学捜査班(CSI)とはどう違うんだい?」

「ほとんど変わらん」カペロは苦い笑いを浮かべて答えた。「CSIは各州の警察に所属する捜査班。こっちはFBIだ。違うのは、ドラマになったかどうかだな。おかげで新人のIQは向こうが上だ。おれが引退する十五年後には差が付いているかもしれんな」

「じゃあこれが、大逆転のための秘策ってわけか」

おれは小ぶりなジュラルミンのケースをテーブルに置いて蓋を開いた。スポンジで型抜きされた窪みに、長さ十五センチ、幅四センチ、厚みが三センチの装置がはめ込まれている。ワイヤレススピーカー程度のサイズだ。

「小さいな」カペロが身を乗り出した。

「おれも驚いたよ。これが依頼品の〈アイオン〉モバイルシーケンサーだ」

〈アイオン〉はオクスフォード大学発のベンチャー企業が作ったプロティンシーケンサーだ。小ぶりなケースを開けて、分析したい試料をなすりつけると、三百五十個の有機センサーが分子を一つ一つ調べ、数え上げていく。データはリアルタイムでUSB端子から出力される仕組みだ。iOSには専用のアプリも、ライトニングケーブルのキットもある。そんな説明をしながら、オクスフォードの学生たちに習った手順で実演してみせる。

「iPhone使えば、現場でDNAのコードが読めるんだ。m13型でDNAを抽出する犯罪捜査(フォレンジック)用のプラグインも買っておいた。カペロさんのアカウントを使えばFBIのDNAデータベースとも照合できる。納品書だよ」

五二〇〇ドルと書かれた合計金額にちらりと目を走らせたカペロは頷いて紙をジーンズのポケットにねじ込んだ。

「分析ツールはジャンボさんのiPhoneにインストールしてくれないか。〈アイオン〉も用が済んだらあげるよ」

「ちょと待てよ。官費じゃないのか?」

カペロは手を組んで深く座り直した。

「CSI現象って聞いたことあるかな」

「いいや」

「現場から採取してきた毛髪やら塗膜やらを分析官が顕微鏡で覗き込み、特徴を見いだす。そして判断するんだ。これは容疑者のものと同一です。一件落着。そんな科学捜査信仰だよ」

辛辣(しんらつ)な言いぶりにおれは驚いた。カペロ自身がそんな分析のベテランのはずだ。驚きは顔に出たらしい。カペロは論文の挟まれたマニラフォルダーをこちらに向けて開いた。執筆者は米国科学アカデミー(NAS)、投稿は二〇〇九年だ。論文からはムカデの足のように無数の付箋が生えていた。

「このレポートは、すべての科学捜査が個人と証拠を結びつけていないと結論づけている。どれだけ経験を持つ分析官でも、認知バイアス─思い込みからは自由になれない。科学捜査は冤罪を防ぐために使えとさ」

「CSI、好きなんだけどな」

「おれもさ」カペロは力なく笑い、青い付箋のページを開いた。「唯一の例外がDNA鑑定なんだそうだ。最後に試してみたくてね」

「最後って……」

「引退するんだよ」カペロは駐車場へ目を向けた。「iPhoneを持って、一緒に農場(ファーム)へ入ってくれないか」

沈みかけの太陽が木の影を縞模様に落とす死体農場で、防護服姿のカペロが脚を止めた。大きな楡の木の根元だった。人の形で膨らむ青いビニールが、地面に広げてあった。四隅はキャンプ用のペグで留められていた。ビニール端からは黒い革靴が覗く。紺のパンツに縫いとめられた黄色のラインにおれは凍り付いた。

「まさか……例の死んだ警官か?」

「ご名答、と言いたいところだが、彼はもう墓の下だ。制服だけ貰ってきた」

道具入れを地面に置いたカペロは膝をついてシートをめくり、ピンセットで制服の胸元からなにかをとりあげた。木々の間を抜けた夕陽が、ピンセットの先端に絡まる縮れた毛を染める。

「よかった、残ってたよ」

「それは?」

「犯人の髪の毛さ。巡査の胸には頭突きを思わせる内出血があって、バッヂに髪の毛が絡んでた。現場は州境。FBIの調整で黒人警察を恨んでたヤク中が即日逮捕され、すぐに自供が得られた。それからラボに容疑者のと、制服からの二つの髪の毛が持ち込まれて、おれは同一人物のものだと判断した」

カペロは毛根をシャーレに浸し組織を試薬で溶かしてからピペットで吸い上げ、おれのiPhoneと繋いだ〈アイオン〉のセンサーに落とした。

「どうだい?」

おれはiPhoneの画面を睨んだ。

「犯罪者データベースとは一致しない」

「ちくしょう。はじめ別人のものだと思ったのに」

カペロが地面に拳を叩きつけた。

認知バイアスだ。アカデミーのレポートを読んだカペロはそれに気づき、引退を決意して、確かめるために〈アイオン〉を買い求めたのだ。

iPhoneが震えた。

「捜査員にヒットしたぞ」

「なんだって?」カペロは顔を上げた。

「ナッシュビル市警(MNPD)の警部補(ルチナント)、ローチだ」

「初期捜査のチーフだよ。金髪をおれのところへ持ち込んだのは彼だ」

カペロは防護服越しに胸ポケットを?んだ。薄いフィルム越しにFBIのバッヂが浮き上がる。おれは言った。

「なあ、引退はやめとかないか?」

唇を引き結んだカペロが顔を向けてきた。おれは〈アイオン〉をiPhoneから抜いてカペロの手に押しつけた。

「あんたみたいな人が警察官にいるほうが嬉しいし、DNA検査が増えた方が、冤罪も減りそうだ」

おれはカペロの肩に腕を回して、防護服越しに囁いた。「仕入れはジャンボ・カンパニーに頼むわ。リベートは二十パーセントもあれば─」

言い終えないうちにカペロはくぐもった笑い声を上げて腕をほどいた。

「コンペするよ。正面玄関からどうぞ、ジャンボさん」

藤井太洋

2012年、セルフパブリッシングの『Gene Mapper』でデビュー。『オービタル・クラウド』で第35回日本SF大賞、第46回星雲賞日本長編部門を受賞。