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クリエイティブを支えるアドビ独自の社内育成プログラム

イノベーションの秘密創造の「赤い箱」を紐解く

イノベーションの秘密創造の「赤い箱」を紐解く

アドビの「赤い箱」

アドビ製品には常にクリエイティブユーザが驚くような新機能が盛り込まれてきた。これらの画期的なアイデアのうちのいくつかは「キックボックス(Kickbox)」という社内プログラムによって生み出されている。

キックボックスは、アドビ内の開発者を対象に社内イノベーションを起こすためのプログラムとして2012年より北米で開始されたものだ。翌年の2013年には日本でも実施され、現在では全地域で展開されている。そして、イノベーション開発に必要なツールがまとめられた「赤い箱」は、すでに社内で1000個以上が配付されている。

今回実際にキックボックスのプログラムに参加した2人の日本人開発者に話を聞くことができた。社内プロジェクトという性質のため、進行中の具体的な内容については公にすることはできないが、持続的なイノベーションを起こすためにアドビがどのような取り組みを行っているのかについてその一端を知ることができるだろう。

一般的に組織やプロジェクトが巨大化すればするほど、職務の細分化が進んで意思決定が遅れがちとなり、市場に強いインパクトを与える“イノベーティブ”な製品を生み出すことは難しくなる。そうしたいわゆる「大企業病」に陥らないためのヒントが、このキックボックスに込められているように思われる。

Adobe Kickbox

「キックボックス(Kickbox)」は、アドビのクリエイティブ担当副社長でチーフストラテジストであるマーク・ランドール氏が提唱する、社内イノベーションを引き起こす人物を育成するためのプロジェクト。インパクトのある新しいアイデアを効率的に生み出し、顧客とのエンゲージメントを高め、最終的にビジネスへと結びつけるためのプロセスを支援するためのツールとノウハウが詰め込まれている。従来の組織の中では起こりにくかったイノベーションの量と質、スピードを高めるための手法として、またイノベーターを育てる方法として注目を集めている。

服部正貴(写真右)●日本語タイポグラフィ シニアフォントデベロッパー。「小塚明朝」「小塚ゴシック」など日本語フォントの開発に携わる。宮本洋子(写真左)● 研究開発本部 クオリティエンジニア。クリエイティブ・クラウド製品のローカライズやテストなど品質管理を担当する。

6つのステップ

日本で初めて行われたキックボックスでは、プログラムの提唱者であるマーク・ランドール氏自らがファシリテータ(司会進行)として2日間のワークショップ形式で開始された。対象者は社内で開発に携わるメンバーのほとんどである20名前後が参加し、5~6名のグループに分けられて全員に赤い箱が渡される。その中には、イノベーションを起こすための6つのステップが書かれたカードが含まれ、それをグループで協議しながらチェック項目をクリアしていく。「ワークショップで何をするのかは事前にほとんどわかっていなかったので、エンジニアはとりあえず全員参加しました(服部氏)」。

イノベーションの最初のステップは「レベル1:きっかけ(Inception)」であり、自分が何を目的として、何がしたいのかという自分なりのモチベーションを明確化する作業だ。「これは現在関わっている仕事とは関係ないものでもよく、自分のやりたいこと、あったらいいなというサービスについて自由に考えることです。“自由に”というのがなかなか難しかったですね(宮本氏)」。

「レベル2:アイデアの創出(Ideate)」では、漠然としたアイデアを具体的な概念としてアウトプットし、どのように製品化していくのかを考えていく。「ここでは3分でアイデアを考えて付箋紙に書いて貼るなど、普段はやらないことをするのでなかなかハードルが高かったです(服部氏)」。

「レベル3:改良(Improve)」では、アイデアをまとめてメンバー内に披露し、フィードバックをもらいブラッシュアップする段階だ。アイデアを具体化する「禅・ステートメント」と呼ばれる手法が用いられ、コンセプトの対象やユーザベネフィットなどを大きな紙に書いてアイデアを明確化していく。

また、赤い箱にはアイデアを書き留めるメモ帳も含まれており、「良いアイデアだけでなく悪いアイデア」も書き留めるように指示されている。イノベーションは突飛な発想から生まれることがあるというのと同時に、失敗を恐れてアイデアを出すのをためらってはいけないというメッセージがここには込められている。「これまでほとんどのアイデアは口頭で伝えるだけでしたが、書き出してみると自分のアイデアがいかに人に伝わりにくいかというのが実感できました(服部氏)」。

ワークショップでの討議はレベル3までで、「レベル4:調査(Investigate)」からはアイデアの実現可能性などを精査し、定量的・定性的に調べていく。「書きだされた内容についてグループで互いにメリットとデメリットを指摘し、実現可能なアイデアへまとめていきます。他人の優れたアイデアがあれば、それに乗っかって進めることも可能です(服部氏)」。

調査手法はさまざまで、専門家やユーザへのインタビューを行ったり、アドビの名前は伏せたWEBサイトを起ち上げ、ユーザの反応を測定することもある。ここでのサーバ管理費やアドワーズ広告などの費用は、キックボックスに含まれたグループ各自の予算(1人1000ドル)から捻出する。キックボックスの内容について上司から指示をされることはないが、通常の業務以外の時間を有効に使って進めていく必要があるという。「プロジェクトによっては、1~2週間に1度集まってミーティングしたり、アップデート作業を行いました。途中で方向性が変わることもありますし、フィールドワークやプロトタイプづくりなどをしているので1年以上はかかっています。それでも自分たちがやりたいこと、つくりたいものなのでモチベーションは高かったですね(服部氏)」。

社内イノベーターの育成

この調査期間を経て、「レベル5:反復(Iterate)」で仮説とその検証を繰り返し、どのように当初のアイデアの価値を高めていくのかを立案。そして赤い箱の最終ステップである「レベル6:浸透(Infiltrate)」へと進んでいく。ここではまとめたアイデアや集めたデータを元に、どのように組織に説明していくかということを示さなければならない。成功すれば予算が付いて次のステップである「青い箱」が渡されるし、ここで未採用でもキックボックス参加者には新事業展開の経験値が上がる。

「集約して提案したアイデアは最終的に5つほどでした。その中でブルーボックスに進んだアイデアもありますが、僕たちが進めていたアイデアは本社のプロジェクトにたまたま似たようなサービスがあったので止まってしまいました。宮本さんが進めていたアイデアは現在も進行中です。いつか皆さんが利用する機能として製品に組み込まれるかもしれません(服部氏)」。

また、自分たちが提案したアイデアの核心は受け継がれているので、採用されなかったことについて後悔はしていないとのこと。さらに、調査段階で普段は接点の少ない専門家やエンドユーザの声を聞くことができ、大きな収穫を得たと実感しているという。

両氏にキックボックスで得たものの感想を求めたところ、いずれも「通常の業務とは比較にならないほど、スピーディに自分たちがやりたいことが提案できたこと」「単なる思いつきのアイデアだけでなく、ビジネス視点で物事を考えられたこと」を挙げた。これはキックボックスの一番の狙いである「社内イノベーターの育成」の成果ではないだろうか。市場に強いインパクトを与える“イノベーティブ”な製品を生み出すのは、社内にいる1人1人のイノベーターであることを示したキックボックスプロジェクト。アドビの強さは、こうしたクリエイティブな人材とそれを育成する仕組みにこそあるのだ。

How to Kickbox

キックボックスの基本ワークフロー。2日間のワークショップでは「赤い箱」の6つのステップに沿い、5~6人に分かれたチームでアイデアを出しあって互いに評価をする。絞りこまれたアイデアはワークショップ後にインタビューなどの調査を行い、実行可能なプロジェクトにまとめていく。課題をクリアしたプロジェクトへは「青い箱」が渡され、事業として実施していくための準備が進められる。

最初に渡される赤い箱の中身は、甘いもの(チョコレート)とカフェイン(コーヒーのギフトカード)、プロジェクトの進め方が記された資料、リサーチやプロトタイピングなどアイデアを実行するために1000ドルがチャージされたプリペイド式のクレジットカードだ。

厳選されたプロジェクトに対しては青い箱が渡される。この中身はプロジェクト内容によって変更されることもあるが、基本的には製品として展開していくための必要な資金集め、社内リソースの活用方法などが書かれた書類が含まれている。

プロジェクトはオープンソース化されており、その手順はどの企業や個人でも利用できる(現在は英語のみ)。すでに日本国内のいくつかの大手企業からも問い合わせがきているとのこと。あと必要なのは、社員1人につき10万円程度の資金を投資できるかという経営陣の判断だけだが、人材育成のコストとしては高くないのではないだろうか。

【URL】https://kickbox.adobe.com/