イラスト/灯夢(デジタルノイズ)
軒先にぶらさげた竹筒が涼やかな音を鳴らして来客を告げた。
「サワディクラップ(こんにちは)」と口にして作業台から顔を上げると、袖をちょん切ってベストのようにしたM65野戦服(フィールドジャケット)の男性が戸口によりかかっていた。ダッフルバッグを押さえる足元はお決まりのビーチサンダルだ。典型的なダメ西欧人(ファラン)のなりをした彼はダイク・ファーレンという脱走兵で、修理工房を開いたばかりの俺になにかと世話を焼いてくれる。
「女言葉はやめたのか。サワディカー、似合ってたのに」
作業台に肘をついて覗き込もうとしたダイクの鼻先に、おれは指を突きつけた。
「うるさい。裏でハッパでもやってろ」
店の裏はファランたちが真っ昼間からガンジャにふけるバーが軒を連ねるほど、外国人の多いエリアだ。
二〇一四年のクーデターから十年。タイは軍人の大好きな統制経済のおかげで米ドルを使う地下経済が活況を呈している。ダイクのようなファランはドル流通に寄生してその日暮らしを豊かに過ごし、おれはApple製品を扱って糊口を凌ぐ。今年のWWDCで発表されたコンタクトレンズ型ディスプレイ〈コーニイ〉の並行輸入は開店資金をペイできるほどの稼ぎになった。仮想ディスプレイの枠が消えない、二度の瞬き(ダブルウィンク)のジェスチャーが効かないなど、トラブルだらけなのが玉に瑕ではあるが。
ダイクはダッフルバッグを持ち上げた。
「まあまあ、今日は客だよ。出物(でもの)を持ってきたんだ」
たくましい腕にぶら下がるバッグには、板と箱が入っているようだ。
嫌な予感がした。
「名機だよ。六百ドルでどうだ」
曇ったおれの顔色に言葉を強めたダイクが取り出したのは、Power MacG4 Cubeだった。ディスプレイと専用のスピーカーも付属している。
「……やっぱり」
悪いマシンじゃない。一辺8インチの立方(キューブ)筐体が透明なポリカーボネートのケースに支えられて宙に浮かぶ様は文句なしに美しい。ニューヨーク近代美術館が収蔵するのも納得の名機だが、実際に使うとなると話は別だ。
ファンのない小さな筐体は熱に苦しみ、タッチセンサーの電源ボタンは誤動作を繰り返す。
銀座のAppleストアに勤めていた頃も、Cubeが再起動を繰り返すといって毎年のように持ち込んできた、筋金入りのオールドMacファンがいた。銀座の2Fで彼の言う暴発は再現せず、部品交換しても治らないということだったので、ケースの内側にタッチセンサーをごまかすためのメンディングテープを貼ってやった。あれが最後だ。そう、まさに目の前のCubeでもそうしてあるように──。
「ダイク……これをどこで手に入れた」
「チャトゥチャックだよ」
ダイクは週末に一万五千店が店を開ける世界最大の市場の名を挙げた。
「場外のフリーマーケットで女性が売ってたんだ──なんだよ。あんた」
店の暖簾がからりと音をたてた。
ナイロンのワンピースを着た小柄な女性が作業台のCubeを見つめていた。
「サワディクラップ」と声をかけたが、女性はおれに目もくれずダイクへ歩み寄り、しわくちゃの十ドル札を二枚押しつけようとした。
「返してください」
「だめだ。二十年前のマシンだから二十ドル、それで納得しただろ」
「おいダイク、理屈がおかしいぞ。だいたい二十ドルで仕入れたジャンクを六百ドルで売ろうとしてたのか?」
六百ドルという声に、女性が反応した。
「やっぱり価値のあるものなのですね。あの……せめて、三百ドルほどにでも……終末期医療施設(ホスピス)の費用が足りなくて」
「ホスピス?」
おれは女性の顔を覗き込み、それからCubeのケースの内側で黄色く変色したメンディングテープに目をやった。
それで客の名を思い出した。
「坂本(さかもと)さん、どこかお悪いのですか?」
*
小さなコンドミニアムの寝室でベッドでメイドの女性に支えられて身体を起こした老人は、鼻の酸素吸入チューブを押さえながら顔をこちらに向けた。柔らかな声が懐かしい。
「蜂谷(はちや)さん、だったよね」
「覚えていたんですか」
「そりゃあ、何度も世話になったジーニアスだもの。あのCube、テープのおかげで暴発はだいぶ治まりましたよ。美しくはなかったけど」
「このお部屋でお使いだったのですね」
おれはがらんとした部屋に首を巡らせた。安っぽい青のペンキで塗られた壁には結露で浮いた水滴が流れ、床に水たまりを作っている。金になるものは全て売り払った後らしく、家具らしいものは作り付けの本棚とデスク、そして介護用のベッドと酸素発生装置だけ。
「バンコクで使ってると言ってくださればクパチーノに報告したのですが。それより、これ、お返しします」
おれは借りたダッフルバッグからCubeを取り出して電源を繋いだ。
坂本が目を細め、ふっと息を吐く。暴発起動を予測したのだろう。つまりあのテープでは直っていなかったのだ。
「直したんですよ」と言い、ケースを傾けて見せる。
「テープもないのに」
「タッチセンサーにワセリンを塗りました。湿度が問題だったんですね」
タッチセンサーに触れると軽い起動音に続いて、濃いグレーの画面が現れた。続けて現れたOSのスプラッシュスクリーンに、坂本が息を呑む。
「まさか──」
「そう。Rhapsody(ラプソディ)です。サーバーとして販売されたものではなく、MacOSの後継として開発されていたものです。どうぞ、遊んでください」──動けるうちに。
メイドから聞かされた坂本の余命は五ヵ月。オールドマックのファンだった坂本ならば、あり得た未来のひとつ、Rhapsodyを楽しんでくれることだろう。
「メールぐらいは読めるようにしてあります。これから行く先で遊んでください」
ベッドを壁際に寄せてマウスを渡すと、坂本はFinderの代わりに用いるワークスペースマネージャーでファイルを探りはじめた。
「用が済んだら終わったら買い取りますけど、四百ドルは先に渡しておきます。病院の費用にお使いください」
「終わったよ」
坂本はマウスをCubeの前に置いてベッドに背をつけた。
「え、もう?」
「時間が無いのは知ってるだろう。今はこっちを楽しみたいんだ」
坂本は右目を指さした。瞳の濁りで気づかなかったが、透明な基盤を持つコンタクトレンズを装着している。
「〈コーニィ〉……ですか」
坂本は力強く頷いた。
「じゃあ、お金がないのって──」
「もちろん〈コーニィ〉を買ったせいさ」
嫌な予感がした。
「それでね、蜂谷さん。〈コーニィ〉に変な影が出るんだがね」
おれは真っ青に塗られた天井を仰いだ。
「……わかりました。面倒を見ますよ」
藤井太洋
2012年、セルフパブリッシングの『Gene Mapper』でデビュー。『オービタル・クラウド』で第35回日本SF大賞、第46回星雲賞日本長編部門を受賞。