キャリア非主導のSIMカード
アップルSIMは、アップルが提供している「マルチキャリア対応・データ通信専用」という、一風変わったスタイルを持つSIMカードだ。現時点で対応しているハードウェアは、タッチIDを搭載したiPadに限定される。このためすべてのiOSデバイスで利用できるわけではないが、11月から日本でも直営店であるアップルストアで販売が開始された。本誌でも実際に購入し、レビューしてみることにした。
今回用意したのは、アップルオンライストアで購入したSIMフリー版のiPadミニ4。これにアップルSIMを挿入し、「設定」アプリの中にある「モバイルデータ通信」を選択すると表示される「モバイルデータ通信を設定」をタップすれば、その地域で利用可能なプランが一覧で表示される。ここでキャリアを選択し、購入手続きをすれば設定は完了だ。
本稿執筆時点(2015年12月上旬)で、日本国内で選択できるキャリアは2つだけだ。1つはau。プランは1種類のみで、31日間有効の1GBデータ通信が1500円での提供となる。もう1つのギグスカイ(GigSky)は、複数のプランを用意している。30日有効の500MBプランでは、利用料6000円と高額だが、3日有効の40MBプランであれば1200円だ。ただし、ドコモベースの回線を利用しながらも高速なLTE(4G)回線は利用できず、もはや旧世代と呼んでも差し支えない低速な3G回線のみの利用となることも併せて考えると、やはり価格面での割高な印象は拭えない。
海外からの渡航者にとっては待望だった「身分証不要のプリペイドプラン」といえるが、限られた選択肢しかない現状では、我々日本のユーザが日本国内で利用するために、わざわざSIMフリー版のiPadを購入し、アップルSIMを使用するメリットは少ないだろう。ドコモやソフトバンクによるアップルSIM対応プランが生まれ、キャリア選択の余地ができて初めて、北米のようなローカルユーザ向けのメリットが生まれてくる。それは、キャリアに縛られることなく、価格や特典によってその都度キャリアを変更するといった自由な選択ができるようになることを意味している。
しかし、海外を見れば、アップルSIMの利用できるエリアはすでに90カ国以上にのぼっている。日本のキャリアショップで販売されているセルラー版も、あくまで国内では他キャリアに乗り換えできないという「キャリアロック」モデルなので、auユーザ以外でも国外であればアップルSIMの利用が可能だ。海外渡航時のデータ通信手段としては、国際ローミングサービスを利用するか、現地でプリペイドSIMカードを購入するかだが、前者は高額のため利用を控えるユーザも多いだろう。後者は安上がりだが、購入場所を探したり、購入の際の手続きが欠かせない。アップルSIM1つあれば、現地でその都度プリペイドSIMカードを購入する手間が省けるという点で、海外渡航時の利便性は極めて高いだろう。
国内でも国外でも、データの追加購入や契約するキャリアの切り替えは、設定後にモバイルデータ通信に表示される「データ通信プラン」の項目から設定するだけ。自分が使いたいときに、簡単な操作で任意のキャリアを選べるという仕組みがシステム標準で備わっているというのは、非常に興味深い点である。
誰のためのサービスなのか
そもそも、このアップルSIMはいったい何の目的で作られたのだろうか。
実はセルラー版のiPadは、iPhoneと異なりアクティベートの際にSIMカードを必要としない。これはキャリアロックされたモデルでも同様で、普段はWi−Fiモデルとして利用し、ピンポイントでデータ通信をしたいとき(たとえば旅行が代表的な例だろう)だけ短期間で契約をするという、音声通話が必須ではないタブレットデバイスならではの使い方が想定されているからだ。
実際に国外を見渡してみれば、iPad向けのプリペイドプランを提供しているキャリアも多く、セルラー版でもSIMなしで販売される地域も少なくないという。こういった場合、ユーザは別途キャリアショップでSIMの発行手続きとプラン契約を行う必要がある。
つまり、アップルSIMはこれを補完する役割を持つといっていい。アップルSIMのみを事前に購入しておけば、必要なときにその場でキャリアとプリペイドの契約を行い、すぐに使い続けることができる。
実際にアップル幹部が同様の趣旨ととれる発言を、他媒体でのインタビュー時に行っていたり、北米のキャリアではすでに自社SIMではなく最初からアップルSIMを渡すオペレーションに切り替えているところもある。
アップルSIMはまったく新しいカテゴリのサービスを構築しようとしているのではない。すでにあるサービスの中で、ユーザが感じる手間を軽減する目的で設計されていると捉えておくのが正しい見方なのだろう。
Apple SIMの対応キャリアは2つ
【左】ギグスカイは40MBから500MBまで4つのプランが用意されており、容量が増えるごとに有効期限も伸びている。3G回線でこの価格は正直割高な印象があるが、ローミングでデータ通信するよりは安価であり、短期滞在の観光客には有効だろう。
【中】国内で選べるキャリアプランは現在はauとギグスカイの2社で、リストは地域によって変化する。今後新規参入キャリアがあれば自動的にリストに追加されるため、アップルSIMそのものを買い替える必要はない。
【右】auのプランは31日有効な1GBのLTEデータ通信(1500円)1つのみでの提供。また、初回利用登録はauの営業時間内(9時から21時まで)に限られ、時間外で申し込んだ場合には翌営業日までアクティベートされないので注意が必要だ。
iPad上でプランを簡単切り替え
データプランの購入が完了すると、「モバイルデータ通信」に契約ステータスが表示されるようになる。キャリアの切り替えや追加購入などは「データ通信プラン」をタップすると表示されるリストから、選択や購入手続きが可能になっている。
アクティベーションの仕組み
現時点ではユーザメリットが見えにくいアップルSIMだが、別の視点で見てみるとまた違った興味深さがある。そもそも我々が普段利用しているSIMの中には、使用する携帯電話の種別(GSMやW−CDMAなど)を管理する「ISMI(International Mobile Subscriber Identity)」、電話番号情報が記録された「MSISDN(Mobile Subscriber Integrated Service Digital Network Number)」、そしてSIMそのもののシリアル番号に相当する「ICCID(Integrated Circuit Card ID)」などが記録されている。これはカード生成時に、ファクトリーでIC上に直接プリントされるため、あとから書き換えることはできない。
では、アップルSIMはどうやってこの情報を書き換えているのだろうか。まず考えられるソリューションとして、携帯電話関連の業界団体「GSMアソシエーション」が技術仕様書を策定、推進している「eSIM(Embedded SIM)」が挙げられる。eSIMを使えばネットワークを経由してリモートでプロファイルの書き換えが可能であり、アップルSIMの挙動にかなり近い実装を行うことが可能だ。
というのも、SIMが利用しているICカードは内部に記憶領域や演算性能を持っている。内部には「UICC」というOSを持ち、そのうえで、JCVM(Java Card Virtual Machine)というJavaアプレットが動作する環境が備わる。eSIMは、前述のプロファイル書き換えをソフトウェア的に解決する「eUICC」を搭載したSIMだ。そこには、セキュリティを保ったまま書き換えを行う機能が定義されている。
eSIMのこのような仕組みを押さえたうえで、それとアップルSIMの類似性を実証するために、いくつかの実験を行ってみた。iPadミニ4を使用しアクティベートしたアップルSIMを、それぞれキャリアロックされたタッチID搭載のiPadと、アップルSIM非対応のiOSデバイスに挿入し、利用可能な状態になるかどうかチェックしたのだ。結果は、右の表を参照してほしい。
未知の技術の宝庫
この実証実験からも、アップルSIMのアクティベーションを行うためにはタッチIDを搭載したiPad(厳密には、アップルSIMアクティベーション機能を持つiOSを搭載したモデル)が必要だが、一度アップルSIMへのキャリア情報書き込みが完了していれば、仕組み上はどのiOSデバイスでもアップルSIMは利用可能だといえる。
実際にデータ通信が使える/使えないというのはキャリアの実装に依存しており、アップルSIMは内部の識別番号を書き換え可能な領域を持つeSIMと同じ原理で作られていることが推測される。
また、アカウントは契約のたびに、その都度切り替えられるようだ。実際にauとギグスカイを切り替えてICCIDを比較すると、異なる識別番号が発行されていることから、アップルSIMには複数の識別情報を記録できる領域があるようで、ベースとなる技術はeSIMと同じものと考えていいだろう。
しかし、eSIMはリモートでのキャリアプロファイルの書き換え(Subscription Manager)を既存/切り替え先のどちらのキャリアが担うのかというルールが決まっていなかったり(現時点では運用時に商用条件で都度決めている)、eSIMの利用シーンとして想定されているユースケースはあくまでM2M(Machine to Machine)と呼ばれる組み込み機器向けとしてスコープされており、携帯電話やタブレットデバイスは対象となっていない。このためアップルSIMはそのままeSIMを使っていないはずだ。
eSIMが使えないのであれば、アップルSIMはどうやって書き換えを実現できるのか。そのヒントは、アップルが取得している携帯電話事業者を動的に切り替え可能にするいくつかの特許にあることが推察される。まずその1つ目がグーグルとともに取得した「Dynamic Switching Architecture」と呼ばれるものだ。
これはMVNO(Mobile Virtual Network Operator = 仮想移動通体信事業者)SIMを使ってキャリアのネットワークに接続し、MVNOのユーザ情報管理データベース(Home Location Register)に接続。認証が完了したら、位置情報をもとに、複数のMVNOキャリアを比較して最適なネットワークへと切り替える仕組みだ。またこの仕組みは、書き換え可能なeSIMは必要がない。地域によって利用可能なキャリアを切り替えて表示するアップルSIMの挙動を考えると、Dynamic Switching Architectureが利用されている可能性は高い。
この仕組みを裏づけるものとして、アップルSIMはキャリアをまったく選択していない「空白(ブランク)」の状態でも先述の「モバイルデータ通信を設定」を実行している間だけネットワーク通信が可能になっている(SIMフリー、キャリアロックモデルともに動作を確認)。
このときはまだICCIDを含む識別番号は一切記録されていないが、その代わりアップルSIMには「CSN (Customer Service Number) 」というデジタル識別子が固定で記録されており、これを使ってネットワークに接続しているようだ。実際にどのキャリアのAPN(Access Point Name)を使っているかを調べる術がないため、断定はできないが、Wi−Fiなしでも通信を行っている以上アップルSIM内部に何かしらの情報が書き込まれているのは間違いない。その点ではeSIMのさらに先を行ったテクニックを使っているのだろう。アップルの持つ技術力の高さには改めて思い知らされる部分が多い、というのが率直な印象だ。
目的のための手段
アップルが仕様を公開していない以上、これらの検証で得られた結果ですらすべては推測の域を出ない。だが、アップデートが容易な設計になっており、今後より多くのキャリア契約の選択肢が生まれてくるのは間違いないだろう。
そして何より重要なのは、このソリューションを実現するにはキャリアの協力が不可欠であるということだ。ユーザによってSIMの契約先が自由に切り替えられるということは、キャリアにとっては顧客を失うという、ビジネス基盤の崩壊であり、本来であれば一番避けたい事態のはずだ。
にも関わらずアップルに協力し、サービスを提供するということはすでに顧客のコントロールがキャリアから、デバイスメーカーへとその主導権が移りつつあることを如実に表わしている。iPhoneが売れ続けた結果、キャリア主導のビジネスモデルは終焉を迎えつつあるのだ。
もう1つ、アップルが研究を進めているものとして「Virtual SIM」と呼ばれる技術に業界関係者の注目が集まっている。全体の設計はeSIMによく似ているが、Virtual(仮想)の名を持つとおり、その仕組みは物理的なSIMカードを必須としない。識別番号の書き込み先はSIMの中ではなくSE(Secure Elements)に書き込むと定義されている。
アップルSIMの書き換えに対応するのはタッチIDに対応するiPadのみだが、この機種の搭載するCPUの中には、もともと指紋認証で利用するパスワードを格納できるSEがブラックボックスとして用意されているため、Virtual SIMの仕様要件を満たしていると考えることができる。
また、Virtual SIMは識別番号の書き込みのための通信機能に、TSM(Trusted Service Manager)と呼ばれる従来の形式をそのまま利用する。この点でも、アップルSIMはあくまでキャリアを切り替えるためのトリガーであって、将来的には物理的なSIMカードがなくても、iOSのハードウェア内部で識別番号を管理できるようになることを示唆している。
アップルSIMの登場による影響の範囲は、今はまだ小さい。しかしいずれ、iOSデバイスを箱から出した瞬間から、自分の好きなようにキャリアやプランを選んで使うことができる時代がやってくるはずだ。アップルSIMは、そんな次世代のビジネスの基盤を作り出していく大きな布石なのだ。
eSIMは、ISMIやMSISDNなど従来基盤上に直接プリントされていた識別情報をソフトウェアで管理し、複数のキャリアを切り替えて運用できるようにするタイプのSIMだ。国内でも2014年から組み込み機器向けにドコモが提供を開始するなど、その実績は少しずつ増えつつある。
アクティベート済みアップルSIMの動作確認
auでアクティベートしたアップルSIMは排他的で、タッチIDを搭載したiPad(SIMフリーもしくはau契約モデル)でしか利用ができない。一方でギグスカイでアクティベートした場合は、どのセルラー版iPadでも使えるだけなくiPhoneでもデータ通信専用であれば利用が可能だ。海外でも動作報告事例が上がっていたが、今回の検証はそれを裏づけるものとなった。
(※1) ソフトバンクモデルのiPadエア2を使用
(※2)iPadミニ(初代)、SIMフリーのiPhone 6s、iPhone 5を使用
ギグスカイでアクティベートしたアップルSIMは、SIMフリーのiPhone 5(GSMモデル)でも、APNやローミングなどいくつか手作業で修正が必要な部分があるものの、データ通信可能になった。ギグスカイは音声通話帯域を持たないため電話機能は使えないが、それでも圏外にならず「NTT DOCOMO 3G」の表示が出たときには驚いた。
キャリア未選択時のネットワーク接続にはCSNを利用か?
未アクティベート時のアップルSIMをチェックしてみると、ICCIDは表示されずCSNのみが表示される。アップルのサポート資料(https://support.apple.com/ja-jp/HT203969)によれば、これは「デジタル識別子」と呼んでいるようだが、アップルSIMを挿すとWi-Fiに接続していなくても契約のためのネットワーク接続が可能になる。このことから、CSNにはキャリア通信のために何かしらの識別番号を含んでいることが推測される。
契約のたびに異なる識別番号が発行される
2キャリアのICCIDを比較すると、明らかに異なる番号が発行されているのがわかる。一般にICCIDは19桁で構築されており、最初の1~2行目が産業識別(電気通信は必ず89)、3~4行目が国番号(日本は81、アメリカは01など)、5~7桁目は事業者番号(auは300)、それ以降が固有のユーザ番号+チェックデジットとなり、アップルSIMも同様のルールでICCIDが記録されているのがわかる。
【News Eye】
SIMカードに搭載されるICチップは64KB程度から、多いもので128MBもの容量を持つカードもある。通信に必要な識別番号はデータサイズとしてはさほど大きくないため、管理プログラムを含めても十分に収まる算段だ。
【News Eye】
アップルSIMは日本のほか、オーストラリア、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、スペイン、スウェーデン、スイス、トルコ、イギリスそしてアメリカのアップルストアで取り扱われており、単体購入が可能だ。また、地域によってはセルラー版のiPad購入時にも付属する場合もあるようだ。
【News Eye】
アップルSIMは、基本的にはキャリアを自由に切り替えができるマルチ対応モデルだが、米AT&Tなど一部キャリアと契約をした場合には、その通信業者専用になることもある(A https://support.apple.com/ja-jp/HT203099)。この場合、新しいカードを購入し直す必要があるので注意しよう。
【News Eye】
今回の実験のようにキャリアロックされたiPadにauアクティベートされたアップルSIMを挿すと、アクティベーションロックされた状態になり、解除手続きをしても、元のアクティベーション画面に戻るというループ状態に陥る。この場合は、慌てずSIMをiPadから抜き取ろう。すると、ホーム画面に戻れる。