「WHILL」http://whill.jp
一枚一枚手書きしていた頃の年賀状にはそれなりの価値があった。しかし、そこにプリントゴッコやインクジェットプリンタという道具が入ってきて効率化が起きた。やりとりする年賀状の枚数は劇的に増えたものの、そのように大量生産された今のカタチの年賀状を「日本文化として守る価値があるのか」と、毎年この時期になると疑問に思う。
確かにトップクリエイターの方々が送ってくれる、デザインにこだわった年賀状は見ていて楽しい。でも、そもそも年賀状である必要があるのか。せっかくつくったものが大量の年賀状に埋もれるのを嫌ってか、最近は年賀状からクリスマスカードに切り替え、紙質にもこだわるクリエイターが多い。
毎年、家族写真を年賀状にして送ってくる友人もいる。友だちの子どもの成長ぶりなどを楽しめるのには確かに価値がある。「年賀状」という風習が、年に1度、家族写真を交換するいい口実を与えてくれるというなら、それはそれで価値があるのかもしれない。だが、自分が出すものも含めて、あまり意味のない画像と干支と一言だけが大量印刷された年賀状は「形骸」でしかない印象がある。
一枚一枚手書きされたものよりも、形骸化された年賀状からその個性や表現の豊かさ、オーラが失われ、薄っぺらくなったことを皆感じていたはずだ。ただ便利だけを追求したテクノロジーはこうした形骸を生みやすい。だが、20世紀人は豊かさよりも、便利さを選んでしまった。
こうした本末転倒の例は年賀状以外にも、少なからずある。
雑誌というものも、その名が示すとおり、その雑誌が持つ世界観に応じてキュレーションされてきたさまざまな情報と出会えることで新たな発見や学びができることに価値があったはずだ。しかし、最近は出版不況で雑誌が売れないからと読者ウケがしやすい記事ばかりを繰り返し、ある意味、予想の範囲内の記事ばかりになったことで読者に追い越され、姿を消していったものが多い。
効率化、最適化はものごとを一時的によくすることはあっても、ものごとを発展させたり、新しい地平を切り開いたり、人類を前進させたりすることはない。
21世紀人は、20世紀の失敗を真摯に受け止めて、そうした一時しのぎの便利さや効率化を求めてはいけない気がする。
代わりに求めるべきなのは、正そうと思っている習慣だったり、行為にどういった背景や発展の歴史があったかを深く考察し、その真髄を今あるテクノロジーや人々の価値観に照らし合わせるとどういうものになるのか、という視点だ。そしてすべてを独りよがりでつくるのではなく、少しだけ利用者にも改善をほどこす余地を持たせ、利用者と一緒につくりあげ、磨きをかける、という姿勢だろう。
そうした生活者、利用者と寄り添うカタチでの開発は大企業よりも小さなベンチャーのほうがやりやすい。
そんな時代を象徴するように、今年のグッドデザイン賞の大賞候補のほとんどが小さなベンチャー企業の製品だった。見事、大賞を取ったのは「WHILL」。車椅子とは何か、それを使う人々の生活はどんなものかを掘り下げ、車椅子ユーザの人も、そうでない人も乗ることができる新しいカテゴリ「パーソナルモビリティ」をつくる。
同じく大賞候補の「和食給食応援団」という活動も素晴らしい。今の子ども達が学校で食べる給食は洋食献立がほとんどで、子ども達に世界無形文化遺産にも選ばれた日本食の良さを伝えていかなければ日本食づくりに必須の日本の一次産業の保護にも貢献しない、それを変えていこう、という活動だ。調理や配膳の効率で考えると悪いかもしれないが、それが未来の日本にもたらす文化的な価値は無視できないと思う。
Nobuyuki Hayashi
aka Nobi/IT、モバイル、デザイン、アートなど幅広くカバーするフリージャーナリスト&コンサルタント。語学好き。最新の技術が我々の生活や仕事、社会をどう変えつつあるのかについて取材、執筆、講演している。主な著書に『iPhoneショック』『iPadショック』ほか多数。