Mac業界の最新動向はもちろん、読者の皆様にいち早くお伝えしたい重要な情報、
日々の取材活動や編集作業を通して感じた雑感などを読みやすいスタイルで提供します。

Mac Fan メールマガジン

掲載日:

Tales of Bitten Apple

あのiPhone

著者: 藤井太洋

あのiPhone

イラスト/灯夢(デジタルノイズ)

「夜明けのデッキでクパチーノ・キャンパスの中庭を見たことはあるかい? 金色に輝く、ジョブスが残した最後の宝物。そんな色だ。iPhone 6だね。Sじゃない」

ポエムに顔を上げると、薄青色のポロシャツに麻のジャケットを羽織ったトビー・早志(はやし)が小さな目を細めていた。入店に気づかなかったのは、ホーチミンのスコールから湿気をとりいれようと扉を開けてあるせいだ。作業台に帯電防止の不織布をかけ、手元を隠す。

笑ったトビーは不織布を指さした。

「蜂谷(はちや)くん、それ、黒海でサルベージされたiPhone 6でしょ」

血の気が引いた。北の大国が作ったハイジャック用iPhone 6。その現物を世界中のテロリストと諜報員が血眼で探している。それを高値で?まされてしまったおれはシリアルを削り、MACアドレスの埋め込まれたモジュールを入れ替えて、ようやく好事家達へ売り始めたところなのだ。

「それを探してる人がいてね。謝礼をはずむらしいから──」

「わかった、わかったよ。何の用だ」

そうこなくちゃ、と笑ったトビーは作業台に身を乗り出した。

「知り合いが、iPhoneに保存されてるプライベーツのメールを取り出したいんだそうだ」

十二の言語を自由に操るトビーだが、そのせいか、時々こんな言い間違いをする。そこはプライベートな、だ。

「……わかったよ。ブツは?」

手を出したおれに「そうこなくちゃ」と笑ったトビーは、「ヒル、ビル、どうぞ」と戸口に声をかけた。

アメリカ、と反射的に思った。花柄のジャンパーとポロシャツにショートパンツのカップルだったからではない。

男性の方はテレビで、老婦人の方はYouTubeで最近まで何度も見ていた顔だったからだ。

「帰れ!」

おれは思わず叫んだ。もちろんトビーへだ。それぐらいの分別はある。

「そうは言ってもねえ。野良のジーニアスなんてなかなかいないんだよ」

「野良──って、おまえ……」

彷徨(さまよ)った視線が老婦人と絡み合う。話す機とみた老婦人はしゃんと背を伸ばして、ネイビーの皮ケースに入ったiPhone 5sのスペースグレイモデルを差し出してきた。

あれだ。彼女が副大統領だったときに機密のメールを読んでいた個人用のiPhoneだ。

「はじめまして、ハチヤさん。トビーさんはあなたならできる、と」

思わず膝をつき、差し出されたケースを押し戴く。

退任間際、混迷を極めるシリアへA・I支援兵士を送り込んだうえで見殺しにしたと非難されているが、二期八年をかけて太平洋世界を一つにまとめた女性の威厳に、抗えるわけもない。

「ご用命、承ります。元大統領閣下」

「──なるほど、自宅サーバーが押収されるまえに全メールを転送したら空き容量が全くなくなってしまった、と」

元大統領はいつもカメラに向けていたように唇の端を下げて、肩をすくめた。

iPhoneにインストールされていたNSA推奨のモバイル機器管理(MDM)は、ストレージを丸ごと圧縮/暗号化していたが、圧縮のよく効いた大量のメールがMDMの読みを狂わせた。展開時の容量が膨れ、起動不能に陥ったわけだ。直せないわけではないが機密の塊を誰にも触らせたくなかったのだろう。

そして十年。ほとぼりは冷めたが、彼女自身が打ち出した〈新たなる戦い〉のせいでインターネットは全面監視されている。副大統領の電子署名がついたメールが中継サーバーを通ってしまえば、今も彼女の機密漏洩を追うFBIが見逃すはずがない。

十分ほどの作業でストレージを載せ替えたiPhone 5sは見事に起動したが、元大統領は「メールは全部、このスレートに送ってちょうだい」と、人に命じることに慣れた態度で依頼を付け加えた。

百万通を越えるメールだ。確かに、指で探してはいられない。

「わかりました。店のLANの中で、ひとつひとつ転送します」

「手動で? 何百万通もあるのよ」

目を見開いた彼女へ、おれは二つの指がついたマニュピレーターを取り出してみせた。トビーが手を叩く。

「あると思ったんだ。〈ステマ指〉」

モバイルゲーム用のデバッグに使うための機械だが、中国のゲーム屋がフェイクレビューの書き込みに使ったためにその名が付いたガジェットだ。

「繰り返し作業を自動化できるんです。お時間を少々戴きますが?」

迷った彼女へ、それまで黙っていた夫が言った。

「待とうじゃないかね、ヒル」

黒い指が目にも留まらない早さで動いてメールが転送されていくのを見ていると、やがて日が暮れた。

トビーがリッチモンドから取り寄せたコース料理を楽しみながら、四名で転送の終了を待つ。

「お役に立てて幸いですよ」

何度目かの同じ言葉を口にしながらiPhoneを見ると、日付がちらりと見えた。2023年──一昨年だ。十年前のメールなんかじゃない。

「Re:」が増える題名が読めてしまう。

“Re:Re:……A・Iに殺される! 助けてくれ!”

彼女が退任するまで知らないと言い続けたシリアの兵からのメッセージだ。

「見てしまったのね、ハチヤさん」

冷たい声が飛んだ。

「いいえ。見ていません」

「よかった。でもね。わかるでしょう。最後のお食事をお楽しみなさい」

頭が白くなる。最後の食事──?

「ヒル」と、トビーが口を開いた。「ハチヤだって手を打ってるよ」

ゆっくりとトビーの顔を見る。“手”ってなんだ。

「してないの? ヒントあげたのに」

トビーはワイングラスをくるりとまわしてから、二人の元大統領に向き合った。

「じゃあ、ぼくと取引しましょう」

「どんな?」

「ハチヤはこの街を去ります。中継に使ったここの店も、機材も全部置いて身分を捨てる」

「足りないわ」

「お土産もあります」トビーは作業台を指さした。

「北の大国が十年前に作ったハイジャック用のiPhoneがあります。現物ですよ。実際に何度か使われた。これならCIAやFBIと取引できるでしょう」

トビーを二人の元大統領はしばらく見つめ、ゆっくりと頷いた。

二人が帰ったあと、トビーは金のガルーダが箔押しされた古びた茶色のパスポートを渡してきた。タイのものだ。いつの間に撮ったのか、おれの写真が貼りつけられている。ナック・ハッチという二世風の名前が記されていた。

「準備、いいんだな」

「感謝してよ。あのiPhone処分しとかなきゃ、もっと危ないのが来たんだから」

ただ手放せ、と言えばいいじゃないか。と思いながらワインの残りをふんと楽しんでいるトビーに聞いてみた。

「そういえば、ヒントってなんだ?」

「二等兵たち(プライベーツ)って言ったでしょ」

藤井太洋

2012年、セルフパブリッシングの『Gene Mapper』でデビュー。『オービタル・クラウド』で第35回日本SF大賞、第46回星雲賞日本長編部門を受賞。