※この記事は『Mac Fan』2019年5月号に掲載されたものです。
ジョブズ退社後、“オープン”になったWWDC。そこで披露された試作機「PenLite」
故スティーブ・ジョブズが復帰する以前のWWDC(Appleの世界開発者会議)には、僕がとても楽しみにしていたセッションがあった。それは、ATGと略されるApple社内のアドバンスト・テクノロジー・グループ、つまり先行技術開発を担当する部門のスタッフが、その時点で手がけている最新研究の成果を発表するというものだ。そうした研究には、たとえば音声認識技術なども含まれていた。
もちろん、当時も本当に重要な最新技術は秘密にしていたのかもしれないが、ジョブズ復帰後に比べれば、WWDCにもはるかにオープンな空気が感じられた。ライターとしても、ATGセッションの内容を書くことはできなくても、Appleの将来的な方向性の一端が垣間見られ、大いに刺激を受ける時間だったのである。日本の家電・コンピュータメーカーも、Appleの開発者プログラムに登録していればWWDCに社員を送り込むことができたので、中には明らかに情報収集目的の参加もあった。
さて、AppleがPowerBook Duoをリリースした1992年のWWDCのATGセッションは、特に印象に残るものだった。デスクトップユニットと合体できるサブノートMacのDuoだけでも画期的だが、さらに同社は、試作機とはいえDuoベースのペンコンピュータを披露したのである。
その頃、Go Corporationという新興企業がすでにペンコンピュータに特化したPenPoint OSを発表しており、MicrosoftもWindows 3.1の拡張機能としてWindows for Pen Computingを開発するなど、ペンコンピューティングはIT業界のブームとなっていた。そのため、ATGによるペンMac(後に内部呼称がPenLiteであることがわかった)のデモは参加者の大いなる注目を集めた。
独自のコンセプトも、Mac OS準拠のUIが壁に。“夢”はMessagePadに引き継がれた
実はPenPoint OSは、開発元によるプロモーションビデオを見るとわかるように、ペンベースの操作に特化した先進的なオペレーティングシステムだった。これに対して、Windows for Pen Computingは、マウス操作が基本のWindowsをペンでも使えるようにしたものに過ぎず、差は歴然としていた。
PenLiteは、PowerBook Duoのスクリーンを表裏逆にして一体化したような成り立ちで、後部のドックコネクタも残されていたことから、Appleとしては、モバイル状態ではタブレットとして利用し、自宅や会社ではデスクトップユニットと合体して通常のMacとして使うことを想定していたのだろう。その点は先行する2社にはない特徴だったが、UI的には当時のMac OSに準拠しており、ペン操作に最適化されていたわけではなかった。
結局Appleは、マウス向けのUIをペンで使っても理想のユーザ体験を実現できないと判断してPenLiteはお蔵入りとなり、同時期に社内の別グループが開発していたペンベースのNewton OSを搭載したMessagePadが1993年に発売された。そして、Go Corporationはその頃のMicrosoftの常套手段であったベイパーウェア戦略(ライバルと同等の機能を実現するといって顧客を引き止め、相手を牽制する)の前に事業破綻し、歴史の闇に消えた。しかし、いずれにしても2010年のiPad誕生まで、タブレット端末が本格的に普及することはなかったのである。
著者プロフィール
大谷和利
1958年東京都生まれ。テクノロジーライター、私設アップル・エバンジェリスト、原宿AssistOn(www.assiston.co.jp)取締役。スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツへのインタビューを含むコンピュータ専門誌への執筆をはじめ、企業のデザイン部門の取材、製品企画のコンサルティングを行っている。