シンギュラリティの本当の意味
昨年グーグル傘下のグーグル・ディープマインド(Google DeepMind)社が開発したAI囲碁プログラム「アルファ碁(AlphaGo)」が、囲碁棋士の世界チャンピオンに完勝し、大きな話題になった。AIが棋士を追い越すには長い年月を要すると見られていたが、深層学習を応用したアルファ碁はAIや人間との対局を重ねながらめきめきと実力を磨き、短期間で囲碁の世界の頂点に登りつめた。そうしたAIのめざましい進化を目の当たりにして、いずれAIが人類の脅威になると懸念する人が増えている。「AIに仕事を奪われる」というような指摘もよく目にするようになった。
世界最強棋士とされる中国の柯潔 九段との三番勝負を全勝したアルファ碁。従来の囲碁AIは人間の対局データを学習していたが、アルファ碁は一切人間に頼らず、ゼロからAIが独学しながら勝率の高い戦法を編み出した。【URL】https://blog.google/topics/google-asia/alphagos-next-move/
最近、「シンギュラリティ(Singularity)」という言葉をよく耳にする。「AIが人類の知能を超える特異点」という意味で使われ、2045年頃には現実になると予測されている。でも、それは本来の意味と異なった使われ方であるのをご存じだろうか。シンギュラリティは、AIのようなテクノロジーの成長によって、人類がテクノロジーの力を用いて生物的な限界を超えた成長曲線を描けるようになる特異点を指す。AIの進化ではなく、人類の進化を意味する。
アップルのAI戦略は、シンギュラリティ本来の意味を汲みとっている。2017年12月にティム・クックCEOが中国でのインターネットカンファレンスに参加した際に、AIの役割について「人間の能力を拡大し、飛躍を助けてくれるもの」とコメントした。そして、人のように考える機械に対してではなく、AIを正しく導くべき人が機械のように考える可能性のほうを同氏は懸念していると述べた。
それが何を意味するかというと、人と機械の関係だ。AI(人工知能:Artificial Intelligence)という言葉の歴史は古く、1950年代にコンピュータ科学者のジョン・マッカーシー氏が使い始めた。しかし、人間に匹敵するぐらいに機械が進化し、さまざまな分野で人間の代わりを務めてくれるという主張を実現する技術は当時にはなく、それから長くAIは現実離れしたビジョンと見なされてきた。60年代以降、コンピュータを進化させたのはAI思想ではなく、ダグラス・エンゲルバート氏やアラン・ケイ氏らが唱えたIA(知能増幅:Intelligent Amplifier)である。機械は人間にとってツールの一種であり、人間を補助し、人間の知能を増強させるものという考えだ。その現実的なアプローチからマウスやGUI、タッチインターフェイスなど、数々の成果が生み出された。
マウスの生みの親であるダグラス・エンゲルバート氏。「コンピュータを誰でも自由に使えるようにしたい」というヒューマンセントリックな目的からマウスは誕生した。技術を活用するうえで、人間を中心に据えた目的が重要になるのはAIも同じである。
ところが、クラウド時代の到来とハードウェアやネットワークの進化によって、ビジョンの域を出なかったAIがにわかに現実味を帯び始めた。長く表舞台に出られなかったAIが、社会の各層から得られるビッグデータと結びつくことで、本当に役立つ技術として開花しようとしている。しかも、IAのアプローチでは望めなかったような進化を期待できる。
そこで重要になるのが、シンギュラリティ本来の意味である。AIの進化は、AIを用いて人類が成長を加速させられる未来に向かうべきだ。人々が機械(またはコンピュータ)に合わせていたのがIA時代だとすると、機械が人々のことを知り、機械が人々に寄り添うようになるのがAI時代である。そんな人と機械の関係の根本的な転換、つまりインターフェイスの革命を実現してこそ、これまで人が解決できなかったような問題をテクノロジーの進歩で乗り越えられるようになる。
人間の行動や社会に関するデータを収集、それらを統計的に分析し、また機械学習を用いて予測を導き出すことで、サービスやビジネス、創造、製造、流通、金融、経営といった社会のあらゆる分野で効率化や改善を実現できる。でも、それは方法をひとつ間違うと、消費者や労働者の反発を招くものになる。だから、アップルはIT大手の多くがアピールする「AIファースト」ではなく、AIにおいても「ユーザファースト」を徹底している。
周回遅れのアップルが先頭に
それがよく現れているのが、プライバシー保護だ。ビッグデータが成長の原動力になっている今日のAI開発では、収集するデータの量が多いほど研究開発の競争で有利に立ち回れる。それでもアップルは、AIの学習に必要な最小限のデータしか収集していない。しかも、機械学習処理をデバイス内で実行し、ニューラルネットワークの精度を高めるためのデータは、アップルIDに紐付かせることなく、ランダムな識別子でタグ付けして匿名化したデータをクラウドに送信している。それではクラウドに人々のデータを吸収して分析するIT大手のライバルとの差が開くばかりだ。
しかし、AIの活用はまだ始まったばかりだ。これからAIは、医療やヘルス、個人のファイナンス、生活行動といった人々のプライベートな部分に浸透していく。そうなると、ユーザのプライバシー保護を徹底できる仕組みが問われるようになる。昨年の春にグーグルがモバイルユーザのプライバシー保護を重んじた機械学習テクニックの導入に舵を切り始め、デバイスでの機械学習処理にも乗り出した。AIを人々の暮らしや社会に役立てる段階になって、AIファーストの陣営が人と機械の関係を踏まえた戦略への修正を余儀なくされている。アップルは、iPhone Xなどが搭載するA11バイオニック(A11 Bionic)チップにニューラルネットワークプロセッシング・コアを搭載している。デバイス内で安全かつ高速に処理する機械学習では、“周回遅れ”といわれた同社が先行しているのだ。
ニューラルエンジンを搭載するA11 Bionicチップ。AIの能力を引き出すにはハードウェアも含めたプラットフォーム規模の開発が望ましく、その点でAppleは有利な立場にある。Googleが一昨年から「Made by Google」としてスマートフォンや家電製品の独自開発・提供に乗り出したのもAI戦略の一環。モバイルデバイス向け独自チップ開発の噂もある。
見慣れた製品に知性を吹き込む
一昨年から少しずつ、アップルのエグゼクティブが同社の機械学習の取り組みについて公で語るようになり、また論文の発表や公式サイトを通じた情報公開を行うようになった。AI分野で出遅れたアップルが有能な人材を確保するための方針転換といわれているが、そうした効果が望めるほど活発な活動でもない。それよりも、未発表の製品や技術について語らないアップルが、AIを用いた製品を世に送り出すようになってAIについて話し始めたと見るのが自然だろう。
アップルのAI戦略は昨日今日に始まったわけではない。ニューラルエンジンを備えたA11バイオニックチップの開発は、2014年にA8を発表した頃には始まっていた。その頃はAIを用いた具体的な製品までイメージできていなかったものの、AI時代の到来にアップルは備え、それが現在のアップルらしいAI分野でのリードにつながっている。
アップルの長期的な戦略についてティム・クック氏は「人々の暮らしのすべてに、我々は関わろうとしている」と述べている。AIは、それを実現する要素技術の1つになる。デバイスに触れる指のパターン、空間の広さといったセンサを通じて入ってくるさまざまなデータをAIが分析することで、スピーカやヘッドフォン、ペン、家電、車など、すでに私たちの身の回りにあった製品あるいはサービスに知性が吹き込まれ、新たな製品に生まれ変わる。アップルが多くを語らないため気づいていないユーザが多いものの、私たちの日々の暮らし、エンターテインメント、生産性にAIによる変化が広がっている。そうしたアップルの体験の向上曲線の先に、私たちは本当の意味でのシンギュラリティを迎える。