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Apple小説「バイバイ、Mac」

著者: 藤井太洋

Apple小説「バイバイ、Mac」

イラスト/灯夢(デジタルノイズ)

いつも怪しげな依頼をもってくるトビー早志(はやし)に、久しぶりにランチをおごるよ、と言われてついていったのが間違いだった。タクシーに乗せられて行った先はスワンナプーム国際空港のビジネス・アビエーションターミナルだった。

言われるがままにパスポートを出し、出国手続きを済ませたおれは、滑走路脇に佇むエンブラエル社のビジネスジェット、リネージュに連れていかれた。

レンタルしたらしい質素なビジネスジェットのキャビンには、金髪の若い男性が座っていた。ビジネスジェットに似合わない、襟のほつれたジャンパー姿の男はおれの顔を見て、テーブルに焼け焦げたMacBook Proを載せた。

おれのジーニアスだった経験はそのマシンをタッチバーをはじめて搭載したモデルだと告げたが、出た声は違った。

「このロゴ……」

男はおれの目にしたものを見下ろして、ふっと笑顔を浮かべた。

「世界を変えたサービスです」

MacBookに貼ってあったロゴは、漏洩情報(リーク)を公開するメディアの砂時計アイコンだった。

おれはミニバーの冷蔵庫を開けてワインを選んでいるトビーを睨んだ。

「お前、こんな奴らとつるんでるのか」

トビーは抜き出したボトルを渋い顔で見つめながら言った。

「話を聞いてからにしてくれよ。なあ、ジョバンニさん」

名前を呼びかけられた金髪の男はトビーに頷いてからおれに顔を向けた。

「世界を変えたのは事実でしょう。イラク戦争の去就に大統領選、アメリカの諜報活動。他に事例が必要ですか?」

黙り込んだおれの方に、ジョバンニはMacBookを滑らせた。

「これはボランティアのマシンです。どうです、興味はありませんか?」

「いや、ぜんぜん」

席を立ったおれはよろけてしまった。

飛行機が動き出したのだ。なぜかバランスを崩さずにワイングラスを載せたトレイを差し出してきたトビーが笑った。

「お客様の中に、ジーニアスはいらっしゃいますか、というやつだ」

「そういう冗談は好きじゃない」

おれがトビーを睨むと、ジョバンニは唇を引き締めて言った。

「笑える話だったらどれほどいいことかと思います。新品のMacBookは用意しました。マカオまで三時間の飛行です。その間にデータを吸い出してください。アカウントはFileVaultで保護されていると聞いています。こちらの解除もお願いします」

おれは柔らかなソファーに身を埋めて、トレイからグラスをとりあげた。

「無理かもしれんよ」

飛び立ったリネージュが水平飛行に移る前に、おれはMacBookを分解終えた。基板実装されたSSDと、ロジックボード上のデータ転送コネクターは無事だった。USB─Cで接続したMacBookへのバルク転送は、それから二時間後に終わった。

問題はこの次だ。

「AppleのOSにバックドアはない。FileVaultを解除するにはパスワードが必要だよ」おれは電源を入れて、起動音を鳴り響かせるMacBookを青年に向けた。「これでおしまい。パスワードを試すんだね」

ジョバンニはログイン画面が表示されているはずのスクリーンを見つめた。

その視線が揺れた。

画面を覗き込むと、二つのアカウントが表示されていた。もとのユーザーだったと思われる女性の写真と、黄色の槌と鎌が赤い星に重なっているアイコンだ。

見るんじゃなかった。

固まったおれの背後からトビーが首を伸ばし、ジョバンニに言った。

「持ち主は、KGBだったんだ」

拳を握りしめたジョバンニは嗚咽した。聞き取れるのは「イレーナ」と繰り返される女性の名前だけだった。

マカオに向けて降下をはじめた機内で、おれは小さな手帳にメモをとるジョバンニにレクチャーしていた。

「おそらくイレーナさんのアカウントは組織で一括管理されていたのでしょう。パスワードをリセットする復旧キーがデバイス管理ツールに保存されているはずです─ねえ、やめませんか?」

ジョバンニは首を振った。

「代表的なデバイス管理ツールと、攻略する方法を教えてください」

「やめましょうよ」

仮にイレーナという女性のMacが、KGB本体ではなく末端の組織に管理されていたものだったとしても、コンピューター資産を管理する部署に侵入するには命がいくらあっても足りない。

「このアカウントの中身は、なにがあっても取り戻したいんです」

おれはトビーに顔を向けた。

「トビーも言ってくれよ。だいたい勤務先も分からないじゃないか」

トビーはグラスをくるりと回した。

「勤務先はミャンマーのロシア大使館だ。そこが火事にあった。死者はイレーナさんだけだ」

「……漏洩サービスへの情報提供がばれたということ?」

ジョバンニは口をつぐんだまま首を振った。代わりにトビーが答えた。

「仕事だ」

「漏洩(リーク)が?」

トビーがやりきれない、といった風に首を振った。

「あの情報が善意の第三者からのものだって信じてるのか? 仕事って言っただろ。KGBの仕事だよ。ボランティアを装って、都合のいい情報を仕込んでたんだ。暗殺されたのは、その仕事がばれてしまいそうになったからだ─今日だったんですか」

ジョバンニが頷いた。画面を見ると、通知センターに《結婚記念日》というカレンダー項目が浮かんでいた。

おれは目を疑った。

「ログインしてる……」

死んだマシンからFileVaultのかかったアカウントを書き戻せただけで幸運だった。スリープから復帰するための /var/db/sleepimage がデータの書き戻しで生き残ったのは奇跡だ。それに加えて、新たなMacBookは何らかの不具合でSMCがスリープ状態を告げていた。

その結果、データを書き戻されたMacは電源投入時にログイン状態を取り戻したのだ。

どれだけの偶然が重なってこの幸運を引き寄せたのかわからない。だが、これで手は打てる。

「ハードディスクを用意してください」

マカオ国際空港の滑走路で下りたおれは、西日に輝く滑走路へ向かうエンブラエル・リネージュの白い胴体を見つめていた。肩を並べたトビーが言った。

「まさか、Time Machineで吸い出せるなんてなあ」

「二度はない。あんな偶然は狙ってできるものじゃない」

トビーは頷いた。

「それでも彼は漏洩に超大国が関与していた証拠を手に入れた」

「違うんじゃないかな」

復旧したMacBookのデスクトップには、結婚式の様子を伝える写真アプリが表示されていた。イレーナは、焼死する直前にそれを見ていたのだ。

「Macって、なにに使ってもひとの記憶を残すんだよ」

藤井太洋

2012年、セルフパブリッシングの『Gene Mapper』でデビュー。『オービタル・クラウド』で第35回日本SF大賞、第46回星雲賞日本長編部門を受賞。