イラスト/灯夢(デジタルノイズ)
地下鉄銀座駅、松屋口の狭い階段から地上へ出たおれは、習慣になっていた動きで通りの向かいに顔を向けて、欠けたリンゴを見上げた。八年前まで4Fのジーニアスバーがおれの勤務先だった。
Apple GINZAだ。
一階の自動ドアが開いて、細身の男性と、ワインレッドのワンピースを着た女性が現れた。男性は先輩ジーニアスの常木昌三(つねきしょうぞう)。銀縁の眼鏡は変わっていないが、記憶よりも髪が薄くなり、背中が丸まっている。女性は彼がメールで書いていた顧客だろう。
常木は上を指さした。三階のフォーラムに行こうと言っているのだ。暗がりで隣り合って座れば打ち合わせにはなる。Wi─Fiも速く、平日の昼間ならば確実に座れる。だが、おれは首を振ってGINZAに背を向けて築地方面へ歩いた。
ゆっくりと歩いていると、スニーカーとハイヒールの足音が近づいてきた。
「ひどいなあ、蜂谷くん。お客様を歩かせるなんて」
「ひどいのはどっちですか」おれは振り返った。「僕がGINZAに入れなくなったのは常木さんのせいでしょう」
「悪かった」
常木は頭をぺこりと下げた。彼がやらかした新製品のリークを押しつけられて、おれは職を失ったのだ。
「ここにしましょう」
おれは古びた喫茶店を指さした。
小さなテーブルを挟んで座ると、常木は女性を紹介してくれた。名前は春瀬美樹(はるせみき)、三ヶ月前に亡くなった夫の誠(まこと)氏はMacコレクターで、そのコレクションを、価値の分かる人物に譲りたいということだった。常木は誠氏のMac仲間だったのだという。
おれはiPadに共有されたNumbersのファイルにざっと目を通した。
「これ、博物館が開けるレベルですよ。Apple IIの美品やNewtonメッセージパッド、スパルタカスみたいな珍品から一般的な製品まで全部揃ってるじゃないですか。僕は日本にいません。常木さんのほうが適任でしょう」
「Mac稼業を辞めるんだ」常木は頭を指さした。「認知症が出てね」
おれは常木の顔を見つめた。話しぶりはしっかりしている。それに六十歳になったばかりではなかっただろうか。
「そうは見えないだろう? 自覚症状はないよ。でも、この話もご主人から聞いていたのに忘れてしまってた。コレクションは蜂谷の判断で処分してくれ」
「売上の半分はあなたがとっていいわ」
春瀬夫人が続けた言葉に驚いた。
「そんな、一千万円近くになりますよ」
夫人は常木の手をとって微笑んだ。
「彼が迷惑をかけたそうじゃない」
おれは二人の顔を眺めて、それからゆっくり言った。
「条件は?」
「さすがに、わかるか」と言いながら常木はiPhoneの入っている静電気防止袋(ESD)バッグをテーブルに置いた。
「A1785?」と型番で聞いたおれに、常木はシリアルの下三桁、EEEコードでスペックを補足した。
「さすがだね。FYQ、ジェットブラックの128GBモデルだよ。こいつに埋め込まれた誠さんの遺言を探して欲しいんだ」
常木がESDバッグから出したiPhoneは細かな傷にまみれていて、独特の艶が完全に失われていた。
「分解したのは常木さんですか?」
おれはガラスが微かに持ち上がった部分を指さした。防水機能のために導入されたボンドテープが撓(たわ)んでいるのだ。常木は頭を掻いた。
「そうらしいが、思い出せないんだ」
「そのメッセージというのは?」
「誠氏の、最新版の遺言だよ」常木は夫人の手を握り返して言った。「こちらの夫人がちょっと不利な状態にいるんだ」
ようやくわかった。常木は夫人の受け取る遺産をあてにしているのだ。
「やりましょう。いろいろありましたが、世話にはなりましたからね」
おれは傷だらけのiPhoneをESDバッグに戻した。
*
二人を招いたホテルのスイートルームは照明を落とし、カーテンを閉めきっておいた。カーテンの隙間から昼の光が部屋に差し込み、まばゆい光のせいで、部屋は余計に暗く沈んで見えた。
夫人を伴って入った常木は「暗いじゃないか」と不満を漏らした。
「投影したいものがあるんですよ」
おれは光の筋が横切る壁際のソファに二人を招き、レストアしたiPhone7をテーブルに置いた。
「酸化被膜をつけなおして、ケースを磨きました。新品同様ですよ」
おれがiPhone光の筋の下へずらすと、眩い空を映し出すiPhoneに二人は目を細めた。
夫人が驚きの声を上げて壁を指さした。iPhoneが反射した四角い陽光の中に、文字が書かれていたのだ。
「メールアドレス?」
「誠氏のAppleIDのひとつです。クラウドにはiPhoneのバックアップがありましたので、復元しましたよ。メモ・Appに遺言がありました」
おれはポケットiPhoneを出して夫人へ渡してから、常木へ顔を向けた。
「ほんとうに覚えてないんですか?」
「え、いや……」
「常木さん、これは金属製の鏡に像を埋め込む工芸手法、魔鏡(まきょう)です。ケースの裏からタガネで叩き、微かに歪めておいてから、表面を平滑に仕上げ直してありました。タガネをあてた裏側は綺麗に削り取られていました」
おれは身を乗り出した。
「やったのは工芸職人です。だからボンドテープが歪んだ。認知症も?でしょ。分からなかったから僕を使ったんだ」
「……いや、確かにおれが」と言いかけた常木の声は、夫人の声に遮られた。
「誠さん……」
「失礼ですが読ませて頂きました。誠さんは、あなたの計画をご存じだったようですね。では、どうぞお入りください」
おれの呼びかけに、寝室から四名の男性が入ってきた。先頭の男は内ポケットから手帳を出して、ソファに座る夫人と常木へ向けた。
「新宿署の渡良瀬です。春瀬誠さんの死因について、奥さんに話を聞かなければならないことがわかりましてね。そちらの、常木さんもご同行頂けますか」
*
警察が常木と春瀬夫人を連行していったあと、一人残された男性が深々と頭を下げた。おれが連絡を取った春瀬氏の管財人、弁護士の高橋だ。
「ご協力ありがとうございました。コレクションの処分にもご協力いただけるとのことで、大変感謝しています。売上の半分は蜂谷さまがおとりくださいませ」
おれは頷いてiPhoneを指さした。
「これは、彼女へ渡してください」
光の筋の中にあるiPhoneを九十度回転させると、壁には夫人の笑う顔が浮かび上がった。二枚目の魔鏡だ。
高橋がほうっとため息をつく。
「……こんなことができるんですね」
「この像は特定の角度でしか見ることができません。酸化膜に偏光フィルターの役割をする、細かな溝が掘ってありました。人間国宝の仕事です。出所後の生活の足しにはなるでしょう」
「死を悟った誠氏が、これを?」
おれは頷いた。
「それでも彼女が、彼の宝物だったんでしょう」
藤井太洋
2012年、セルフパブリッシングの『Gene Mapper』でデビュー。『オービタル・クラウド』で第35回日本SF大賞、第46回星雲賞日本長編部門を受賞。