多岐に渡る活用法
教室の中、学生が顕微鏡を覗き込みながら細胞の形をスケッチしている。そしてときどき顕微鏡から目を離し、手元にある教材と自分の書いたスケッチとを見比べる…。医学系の大学ではごくありふれた実習授業の風景だろう。しかし1つ異なるのは、手元の教材が紙ではなくiPadだということだ。日本大学歯学部では、今年の4月からiPadを使った授業を導入した。学生一人一人がiPadを持ち、アプリ化された教材、あるいはPDFで配付された新世代の歯科医師を育てるiPad授業教材を授業中に閲覧する。さらに、シラバス(授業画)をアプリ化して配付したり、出席システムをiPadで構築するなど使用内容は多岐に渡る。
この取り組みは今年度の新入生と2年生が対象で、その人数は約300人に及ぶ。かなり規模の大きな導入事例といえるが、今回の導入に踏み切った理由を同大学教授の磯川桂太郎氏に尋ねた。
「以前からPCを使う授業は行っていたのですが、机が狭い教室だと教科書やノートに加えてPCまで広げるのに無理がありました。また、授業では、主教材となる教科書以外にも膨大な紙の資料を使うのですが、iPadを使えば、こうした資料をデジタルで配付できるようになり、紙の節約につながると考えました」
そこで磯川氏は、学部内にiPadの導入を提案。ほかの教員にアンケートをとり、「もしiPadを導入したら授業で活かせるか?」を話し合った。その結果、約3分の1の授業でiPadを活用できる可能性が見え、学部の了解を得るに至った(同学部は選択授業というものがなく、基本的にはすべての授業が必修科目となっている)。
iPadの導入を行う際には、単にデバイスの用意だけでなくインフラ面も考える必要があるが、同学部ではすでにその下支えがあった。まず、学部内のあちこちにWi -Fiが張り巡らされており、何人ものインターネット接続を支える環境が整っていた。また、日本大学は2007年に全学部でグーグル・アップスを導入していた。在校生全員がグーグルアカウントを取得し、メールやチャット、カレンダーなどを通じて情報を共有できる仕組みが揃っていたのだ。
日本大学歯学部の実習授業の光景。事前に行われた講義のPDF教材をiPadで読み返したり、アプリ化された教材で画像を表示しながら細胞のスケッチを行う。
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実習で用いる教材アプリ。典型的な組織の画像が授業内容ごとに並び、サムネイルをタップすると拡大表示される。
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所持することで愛着が生まれる
日本大学歯学部では、学校側が大量導入して学生に貸与・支給する方法は採らなかった。学生たちが使っているiPadは大学側から支給されたものではなく、それぞれ個人で購入したものだ。現2年生には昨年度末に、新入生には入学後のオリエンテーションの時点でiPadを使う旨を伝え、購入を案内した。学校からの提供という形を採らなかったのは「支給された端末でなく、自分自身のものとして使うことで愛着が湧き、自ら進んで役立ててくれないのではないか?」という考えがあったからだという。また、すでにiPadを持っている学生は、それをそのまま活かせるのではないか? という思いもあったそうだ。
個人の所有物ということで、アプリのインストール制限や設定制限といったデバイス管理は一切行っていない。各々が自分の好きなアプリを入れ、授業でもプライベートでも、自分の好きなように使うというスタイルだ。しかし、それでは授業中にゲームなどで遊び出す学生も出てくるのではないだろうか?という疑念がよぎるが、その問いに対して磯川氏ははっきりとした見解を示した。
「中には授業中にゲームをする学生がいるかもしれません。しかし今の時代は誰もが携帯電話やスマートフォンを持っていますし、遊ぶ学生はそれで遊んでしまうでしょう。iPadがあろうとなかろうと、その点は関係ありません」
実際に教室を覗くと、見渡した限りすべての学生がiPad/iPadミニを開き、熱心に授業を受けていた。新学期が始まって1カ月ほどしかたっていないが、すでに全員の準備が整っていたようだ(話によれば、約半数がiPadミニを所持しており、中でも16GBのホワイトモデルが人気だという)。教室前方のスクリーンに映し出されている講義資料と同じものを手元のiPadにも表示させ、多くの学生がスタイラスペンで講義メモを書き込んでいた。
「今学生たちが開いているのは、あらかじめ学部内のインフラで公開したPDF教材です。PDFを開くアプリは特に指定していませんが、学生たちの間でノウハウを共有して、便利なアプリを見つけて使っています。手書きのメモが書き込める『グッドリーダ(GoodReader)』などがよく使われているようです」。そう語るのは、磯川氏と同じ研究室(解剖学第2講座)で助教を務める山崎洋介氏だ。
数人の学生に話を聞いたところ、みなiPadは4月に使い始めたばかりだという。それでも、操作に戸惑う様子は一切ない。以前からPCは所持していたということで、新しいデバイスへの順応も早かったようだ。素早くピンチインで文書を拡大し、スタイラスペンを使いながらスラスラとメモを書き込んでいくのが印象的だった。
3Dの活用にも積極的だ。図は「KOS」(メタ・コーポレーション・ジャパン)というアプリ。同研究室ではメーカーと共同でアプリ内に入れる歯の3D教材を開発しており、近々授業に取り入れる予定だという。
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iPadを使った出席システムも構築した。学生は自分のiPad内にQRコードを生成するアプリをインストールしておく。授業が始まる前にそのアプリでQRコードを表示させ、教員が専用バーコードリーダアプリで読み取る。
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約150人が定員の教室内に、Wi-Fiのアクセスポイントが3台設置されている。同学部にはこうしたWi-Fi環境のある教室が複数ある。しかし、数年前に導入したこの環境ではトラフィックを支えきれなくなってきており、見直しが必要な時期にさしかかっているという。
講義を行う歯学部教授の磯川桂太郎氏。同学部におけるiPad導入の中心人物で、学術研究・教育でのIT活用に関して、以前から積極的に取り組んでいた。
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同学部助教の山崎洋介氏。出席システムなどのアプリは、山崎氏が自ら制作した。Xcodeによるアプリ開発の知識を持ち合わせている。
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3D教材の利用も
現在は、静止画像を中心としたアプリ教材やPDFの利用が中心で、歯学の修得に特化した活用法はまだ始まっていない。しかし山崎氏によれば、3Dを表示するアプリやデジタルブックなども、近々授業に取り入れる予定だという。歯科医になるには、歯の形状を立体的に把握しておく必要があり、3Dモデルを表示できる教材の利用は大いに意味がある。現在、山崎氏が自ら3Dモデルを使った教材の作成を進めている段階だ。
このようにさまざまな方法でiPadを活用することは、学習効果の向上だけでなく未来の医療現場の革新にもつながるかもしれない。日本大学歯学部を卒業した学生は、ほぼ全員が歯科医師になるという。ここで学んだ学生たちは、どこにでも持ち運べるフットワークのよさや、画像や文書、3Dデータを始めとするさまざまなデータの扱いやすさといったiPadのメリットを実感し、いずれそのメリットが医療現場の改善につながるような活用提案を生み出してくれるのではないだろうか。数年後の歯科医療の現場が、彼らによって大きく革新されることを期待したい。
PDFは、iOS標準のiBooksアプリでも表示できるが、手書きで文字を書き入れられるアプリを使っている学生が多い。グッドリーダや「NoteAnytime」が人気だという。
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講義では、PDFで配布した教材を活用する。多くの学生がスタイラスペンを使い、PDFの上に手書きで文字を書き込んでいた。
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iPadは決して万能なデバイスではなく、専門性の高いソフトを扱ううえで、やはりPCが必要な授業もある。そうした用途に対応するため、同学部では160台のMacBookエアを導入。ブートキャンプでMac /ウィンドウズの両方が起動できるようセッティングしている。
『Mac Fan』2013年7月号掲載