対談は、2013年5月2日に消防庁の「危機管理センター」内部で行われた。危機管理センターには、全国各地で起きている災害情報をモニタリングできるさまざまなシステムが配備されている。
杉田憲英(Norihide Sugita)
東京大学を卒業後、1993年に自治省に入省。大阪府庁や三春町役場、新潟県庁などを経て2007年から奈良県庁へ出向、副知事時代に救急医療システムe-MATCHの導入を進める。2013年より総務省消防庁国民保護・防災部広域応援室長。現在は消防防災の分野へのICT技術導入を推進中。
畑中洋亮(Yosuke Hatanaka)
東京大学医科学研究所での遺伝子医学を研究後、アップルでiPhone日本法人市場開拓を担当。2010年末から、「CLOMO MDM」などを提供する福岡のアイキューブドシステムズへ転籍。現在は同社取締役/社長室長。「医療3.0」というビジョンを提唱し、日本医療をITで変革すべく活動している。
ICTと行政、医療3.0
畑中●杉田さんは官僚として、霞ヶ関、県、市町村で財政や消防防災、危機管理、医療福祉などさまざまな行政に携わってこられたそうですね。日本の行政の現状についてどうお考えなのでしょう。
杉田●冷静に見て、世界的に日本の行政サービスのクオリティはトップクラスだと感じています。医療福祉、公衆衛生、交通・電気・水道・エネルギー基盤、防犯治安維持などさまざまな国民生活の公的インフラを、他国と比較して非常に少ない公務員がまじめに支えてきたという実態があります。例えば介護保険という複雑な制度を、市町村レベルで回している国はほとんどありません。
とはいえ、課題も山積みです。特に医療福祉分野では、現場職員が患者さんへの対応を効率的、かつ柔軟に実施していくことがより強く求められています。しかし、実際は縦割りのシステムですので、国民の皆様からすれば機能不全に陥っている例が急増しています。例えば、病弱な高齢者が手術する場合は厚労省の医政局の管轄、病に至る前の健康教育は健康局の管轄、地域福祉は社会援護局で、自宅に戻ってからの介護は老健局の管轄。必ずしも、患者からの視点で総合的に施策が展開できている状況ではありません。そこで私は前職の奈良県副知事を務めた際に、障害者を支える行政で、分散していた児童福祉、医療、教育、雇用を一元化する仕組みを起ち上げました。しかし、その一方でICT(情報通信)技術を通じてもっと改善できるのではないかともどかしく思っていました。そんなとき、畑中さんから教えて頂いた桜新町アーバンクリニック 遠矢先生の在宅医療向けクラウドサービス「EIR」や、東京慈恵会医科大学 高尾先生の脳卒中向け救急医療サポートシステム「i-Stroke」の活動実践例などから、まさに「隕石的衝撃」を受けました。
畑中●「医療3.0」は、iPhoneやiPad、クラウドテクノロジーを救急医療や在宅、病院、数々の地域医療福祉の”現場”で活用することで、「現場からの構造転換」を起こす活動(イニシアチブ)です。「Team 医療3.0」というチームで活動していますが、メンバーの1人で佐賀県庁医務課の円城寺雄介さんは、地域行政官の立場で、救急車から搬送可能施設や搬送実績の見える化を企画・促進されています。
彼は医務課に異動になった直後に、救命隊に頼み込んで救急車に乗り込み、「救急隊員が携帯電話で搬送先を1つ1つ探すので、搬送が遅々として進まない」「高度救急施設にばかり搬送先が集中する」という現状を目の当たりにしました。それをきっかけに、現場の救急隊員や医師グループと、地域のすべての救急医療機関の受入可能状況を、いつでもどこからでもiPad上で素早く把握できるシステム「99さがネット」を構築・展開されました。ここで特筆すべきは、このシステムを「現場が使っていること」です。ウィンドウズPC向けに全国で展開されている救急搬送確認システムは、膨大な投資がなされていますが、実際はほとんど使われていません。
そこで、円城寺さんたちは、いかに現場の救急隊員の方々に使いやすくするかに知恵をしぼって、「わかりやすいユーザインターフェイスにする」「操作回数を少なくする」「受入可能数などの指標的情報を見えやすく配置する」といった、シンプルな見える化にこだわりました。また、運用ルールも現場に則して「現場で記録されることを優先して、搬送後時間があるときに入力する」「職位や階級に関係なくフラットに情報共有する」という現場との密なコミュニケーションから生まれた工夫を盛り込んでいます。この取り組みが、「効果が出た(搬送時間が減少した・搬送先が分散した)」「簡単」「安価」と高い評価を受け、現在は数十の自治体で導入が検討されています。弊社は、この佐賀県の取り組みに対して、テクノロジーの側面から「CLOMO(クロモ)」というデバイス・アプリケーションの管理運用クラウドプラットフォームを提供し、支援させていただいています。
杉田●行政の情報システムの形成は未だ過渡期だと思います。国家行政ほど大量のデータを保持し運用すべきところはないのですが、この大量データをビッグデータ的に処理する領域と、情報をきめ細かに処理する領域が、未だに分類も統合もできていません。皆さんも想像されるように、障害者や高齢者、災害時要援護者などの問題はICT技術が大いに活躍できる領域ですが、十分な進展を遂げているとはいえない状況です。そういう中での佐賀県の事例は、現場とコラボしながら革新的な改善を図っているという点で、行政官として学ぶべき点が非常に多いと考えています。
モバイルとクラウドの価値
畑中●杉田さんは奈良県副知事時代に、佐賀県と同様に「e-MATCH」という救急医療システムのモバイル化を進めておられましたよね。その結果、現在奈良県では、救急車や救急医療機関にiPadを導入・運用しているわけですが、なぜiPadだったのでしょうか。
杉田●e-MATCHは、救急隊がiPadで入力した患者情報と、医療機関があらかじめ登録しておいた受入可否情報に基いて、搬送先の決定支援を行うシステムです。当時奈良県では、妊婦救急搬送で妊婦や胎児が亡くなるいたましい事案が続いていました。そこで、就任したばかりの荒井正吾現知事が医療の充実をトッププライオリティとして、県内医療基盤の充実という枠組の強化と、救急のスピードアップという現場業務の改革に取り組みました。その結果、「病院に搬送されるべき患者を、もっとも適切な病院に最短時間で運ぶ」という命題解決に、ユーザビリティとセキュリティに優れるiPadがもっともふさわしいと判断されたのです。
畑中●行政が仕組みを用意し、ルール整備するのが「トップダウン戦略」、現場の従事者、もちろん患者さんや住民を中心に考えるのが「ボトムアップ戦略」とすると、現代ではボトムアップのアプローチが強く求められていると考えています。そもそも人は皆生きており、変化しています。個人個人の差異はもとより、同一個人であっても時代や年齢など時間軸によって変化します。個人に最適なサービスを、最適なタイミングで提供するのに、これまでの変化を前提としていない、堅牢ではあるものの柔軟性に欠ける仕組みで対応できるのか?とそもそもを問い直さないといけません。生活者でもある患者さんを中心に、もう一度仕組みを作り直せると考えるのが「医療3.0」で、必要なのは単に予算や法制度ではなく、患者さん中心とした再定義・再構築だと思います。テクノロジーの進化によって、膨大な情報を蓄積・処理可能な情報基盤が「クラウド」、それらを引き出すための道具が「モバイル」ですね。
杉田●福祉行政や医療行政などを担当してくると、大事な根っこは同じであることに気がつきます。役所側は一個人を、障害者、失業者、生活保護受給世帯、母子家庭…といったラベルを貼るように、管理・指導する側の都合で”分類する”わけですが、実際は、多数の属性が一個人に同居しています。従って、人は一人一人違うことを受入れる必要があり、一人一人行政に求めることは違うことを前提にする必要があるのです。こうした個別の情報を現場から吸い上げ、そして一人一人へ高速に還元していくこと、そのためにもクラウドやモバイルといったICT基盤が、社会で重要な役割を持つのだと思います。
iPadで支援情報共有
畑中●杉田さんは、現在消防庁で危機管理も担当されていますが、仕事内容について教えていただけますか。
杉田●総務省消防庁は消防防災に関する全国的な制度のプランニングと、東日本大震災のような甚大な被害があった場合の全国オペレーションを担っています。いざ災害が起きると、現場である市町村の消防が国民の救助・支援に活躍しますが、さらに大規模災害となると他の自治体との連携や国の支援が必要になります。これらの仕組みを総合的に考えていくのが消防庁の仕事です。日本は地震の活動期に入っており、政府では首都直下地震、東海地震、東南海地震、南海地震、さらに三連動地震、32万人を超える死者等の被害予測も出た南海トラフ地震などを政府では想定しています。
畑中●そうした消防・災害対策の現場をICT技術で変えようという機運が高まっているのでしょうか。
杉田●巨大災害時には被災地の消防だけでは十分に機能しないので、全国の消防が被災地に入ることにしています。大規模災害や特殊な災害が発生したとき、被災地の消防機関だけでは対処できない際に、全国に組織された「緊急消防援助隊」という部隊が駆けつけます。私が管轄する広域応援室では、その援助隊のオペレーションを統括します。全国の消防から集まった若い精鋭達は、私が提案する「消防防災におけるICTの積極活用」にも非常に関心を持ってくれていますね。
畑中●現在構築中のiPadシステムについて概要を教えてください。
杉田●東日本大震災では道路が寸断されたり、灯油ガソリンといったエネルギー供給が滞ったり、福島第一原発の状況が刻々変化したり、宮城県では降雪があったりと、発災直後の過酷な状況の中で緊急消防援助隊に出動を指示することになりました。この活動を支えるためには、各般の「情報の迅速な”把握”と”共有”」がもっとも重要でした。そこで、手袋での操作を前提とした「iPadによる支援情報共有システム」を全国の緊急消防援助隊に導入しています。これを使うことで、お互いの各隊の動きなどがiPadに表示され、全国の隊で共有することができるのです。あの県の隊はこう動いている、それなら自分たちはこうしようといった具合に、動きの効率化が期待できます。現在は各都道府県を代表する消防本部と指揮支援隊を合わせた66隊に導入済みですが、今後拡大していくつもりです。
畑中●同時多発的な危機管理においては、どんな情報が必要で、どんな伝え方を心がけておられますか。
杉田●災害対策でもっともシビアな局面は発災直後です。そこで重要になるのは、生命に関わる情報です。緊急地震速報や津波警報などの気象情報を正確かつ迅速に把握する必要がありますね。政府の立場からは「J-Alert」システムという瞬時警報システムの導入を鋭意進めています。また、災害対策では、モバイルはもっと活用できる可能性があると考えます。例えば発災後に一定期間が経過すると、被災地以外の善意の協力が届くことになりますが、ニーズのマッチングとロジスティックスの高度化により、善意と厳しい局面にある人々をつなぐことができるようになります。そのカギを握るのは、iPadやiPhoneアプリのように、情報をシンプルかつ大量に処理する技術でしょう。ほかにもWi-Fiやクラウドとの組み合わせで、さまざまな可能性があると考えています。
畑中●弊社も、東北の震災直後に、ソフトバンクの孫社長からの要請を受け、ソフトバンク社、セールスフォース・ドットコム社と弊社との3社で、「救援物資マネジメントシステム」をクラウドとモバイルアプリで実現し、被災地に無償提供をした経験があります。これは、避難場所および避難場所以外の孤立被災者への物資供給支援を目的とし、被災した自治体に寄せられる支援物資情報と各被災地区の物資集積拠点、および各避難場所での物資ニーズ情報を、モバイルアプリから入力し、クラウド上に一元化することで、需要側と供給側の正確な情報の調整を行い、その情報をもとに現地の現場事情に合った物資の供給を仲介しようというものでした。震災直後の数日で開発、展開できたのは、モバイルとクラウドの組み合わせだからこそでしたね。一方、被災地の実情を考えると、バッテリの問題などもあったのが事実です。
杉田●そうですね。例えばガラケーのバッテリは3日間持ちますが、iPhoneは1日ほどしか持ちません。よってiPhoneやiPadは、電源のない被災地では長時間稼動が難しいという前提で、行政はリスクヘッジを仕組んでいかなければいけません。東日本大震災では、非常用電源の取れる市役所ではコンセント1つから、百本のたこ足配線で携帯電話の電源をとっていたという実態がありました。今後の技術革新には、利便性と耐久性の両立を期待しています。
ビッグデータの有効活用
畑中●これまで国家や行政が「制度」や「マニュアル」として整えてきたインフラは、クラウドやモバイルといったICTの発展により、新たな局面を迎えているのが今だと感じています。
杉田●情報がクラウドにあるというのは、最近のアップルが保証書ではなくシリアルでユーザを判別・管理していることに発想が似ていると思います。日本企業は相変わらず保証書を配っていて、何かやるたびに必要になりますが。
畑中●アップルという会社は、ユーザと真の意味で向き合っていくという哲学が根底にある企業なのだと思います。アップルの製品・サービスのユーザであれば、たとえ保証が終わったあともアップルストアにくれば最高のアドバイスやサポートを受けられます。日本の企業は、とにかく新規購入が推奨されるため、量販店などで一度買ってもらったら終わりと想定されている場合が多い。サポートを受けようにも、コールセンターのオペレータにいなされ、使いこなせない自分が悪いような気になる。
杉田●日本で最高のアフターサービス、カスタマーサービスを提供している会社はアップルなんですよね。
畑中●自分の前職アップルだったからというわけではありませんが、アップル製品が広まるということは、そういう”向き合うサービス体験”が一般化することでもありますよね。今、国内のiPhoneの販売台数が3200万台、iPadが800万台から900万台くらいという調査もあります。つまり、国民の3分の1がアップルのサービスの体験者になったということで、それはもうキャズムを越えたんじゃないのかなと。製造業の日本企業の多くが感じている危機感は、提供者とユーザとの「継続的な関係性」を当然とするべき「気付き」を、アップルによって多くの人が心地良く素晴らしい体験をしてしまったことかもしれません。
杉田●私はウィンドウズ3.1が出たときに業務の処理能力が向上したことに興奮して、ずっとウィンドウズユーザだったんです。でもウィンドウズは根本的なインターフェイスの向上や、デバイスを使える場所の拡張といった進化が見られませんでした。机の上で使うという領域から飛躍できていなかったんです。
具体的にいうと、平成の一桁年くらいから病院で「空きベッド確認システム」が各地で計画されました。しかし、いちいち看護師さんが戻って打ち込む手間をかけられず、打ち込みをサボってしまうと不正確な情報が共有されてしまう。結局、目的を達成するシステムとして成立しませんでした。でも、iPadならば軽くて持ち歩け、忙しい看護師さんでもベッドをざっと見て、空いているベッドの番号を入力したり、場合によってはベッドにセンサを付けてWiーFiでiPadに飛ばしたりできますよね。パソコンという場所から情報が解放され、そういう自由度が高まったことは感動的です。
畑中●今、日本は公務員の数は多いというような世論がありますが、実際はすべての欧米先進国より人口あたりの数が少なく400万人くらいしかいません。多寡はここで語りませんが、この人たちは、お金を稼ぐことから解放されて純粋にパブリックな目的でずっと働ける希有な社会リソースだと思うんです。削減だったり効率化の話ばかりではなく、佐賀県庁の円城寺さんのように、本来論に立った新しい価値提供を始めたら、ものすごく大きな効果が生まれるだろうと思います。
杉田●例えば、地域の保健師や民生委員の活動などの現場をサポートするアプリを作ったら、すごいことが起きますね。20代から40代くらいの現場で苦労している公務員が毎回書かされている報告書をアプリでサッと打ち込み、携帯回線やWi-Fiネットワークでクラウドに送って自動集計。報告などという過去の記録業務は、その場で終わらせて、代わりに生まれた時間をさらに生産的な、地域や住民向けの活動に充てていけます。
畑中●テクノロジー的には、iPadやiPhoneといったモバイルデバイスが現場に入っていくことによって、裏側のシステムが統合される必要がなく、利用者である現場ユーザの使い勝手を追求できる点が、素晴らしいところです。必要な最小のデータだけをモバイルからどんどん入力できるアプリがあり、使いたい人が使いたいときに使いやすい形でアプリから活用できさえすればいいのです。
杉田●プライバシーなどシビアな情報以外は、データをどんどんオープンにしていくことで新たな地平が開けてきますよね。また、行政でビッグデータと言うと、住民基本台帳と年金と租税、医療保険でしょうか。ここは昔のシステムが改良を重ねながら残っていて、まだ遅れているなと感じることはありますね。今後は「医療3.0」だけでなく、「過疎地振興3.0」とか「教育3.0」とか、そういう考えがどんどん出てくると行政も変わってくるのではないかと期待しています。ぜひ、今後ともさまざまな意見交換・アドバイスをいただければと思います。
畑中●行政の現場からの仕組転換にも貢献して行きたいと考えていますので、引き続きよろしくお願いします。本日はどうもありがとうございました。
緊急消防援助隊動態情報システムと災害対応時系列システム(FDMA)はiPadでも確認できる。地図画面には緊急消防援助隊の現在位置と状態が表示されており、各隊がお互いの動きを把握することで効率的に行動できる。
全国の緊急消防援助隊がiPadで情報を共有するための特殊なWi-Fiシステム。通常は3G回線で通信するが、使えないときは衛星回線を使ったWi-Fiに切り替わる。
全国の緊急消防援助隊の動きが一目でわかる緊急消防援助隊動態情報システム。iPadから見ることもできる。緊急消防援助隊のうち、各都道府県を代表する組織隊と指揮支援隊を合わせた66隊に導入済みで、今後も拡大していく予定だという。
災害の情報をスタッフが入力すると、それがツイッターのタイムラインのように時系列順に流れてくるシステム。今起きている出来事をリアルタイムに共有するのに役立つ。管轄区分や情報源、エリア情報などを分けて入力することで情報の整理ができる。
『Mac Fan』2013年7月号掲載