自宅を徹底的に片付けたくなった。散らかって見える原因がモノの多さにあることは明らかなので、まずは減らすことから始める。まあ、ここまでは誰でも思いつくことで、実際に何を減らすのかが問題だ。作業としては不要なものを判断して処分すればいいわけだから、物理的に場所を取っているものに対して、必要かどうか判断をしていくことになる。
しかし、不要なものは基本的に処分済みのはずで、何か理由があって残っているものばかりだ。たとえば、いつかメルカリで売ろうと思っていた服などは、どうせ売るのが面倒でそのまま置いてあるのだから、あきらめて捨てればいい。
そのようなこまごまとした葛藤を乗り越えて、いわゆる断捨離をしていくわけだが、最終的に何が捨てられないのか追求していくと、断捨離の最大の敵は「思い出」なのだと気づいた。断捨離に向けた強い決意に対して、この思い出だけはしつこく抵抗してくる。断捨離とは、至るところに残された思い出との決別と言ってもいいだろう。
われわれの世代の心に居座る思い出の代表といえば、大量のネガやプリントされた写真がある。おそらく、そこそこのサイズでスキャンしてデータ化し、撮影日やらジオタグやらを付けて整理してやれば、物理的な写真の廃棄には踏ん切りがつきそうな気はする。iPhoneで撮影した数え切れない枚数の写真とともに、ひとまずクラウドに上げておけばいい。ただ量が多すぎて、取りかかる気にならないのが問題だ。
さらには、もはや再生手段すら持っていないミニDVテープに残された思い出の映像はどうすればいいのか。そういえば、娘が小さいころに撮影しまくった動画が大量に残っている気がする。そして、それをiMovieで編集し、iDVDでオーサリングしたデータは残っている。しかし今見ると、DVDの映像もかなり圧縮されていて、保存する価値があるのか微妙だ。きちんと残すには元データから取り込み直したほうがいいのだろうが、データサイズが大きいし、そもそも作業時間がかかりすぎる。
「ひとまずクラウドに」などと書いたが、クラウドとて有限だし、思い出のゴールとして適切な処理とも思えない。問題を先送りしているだけだ。動画にせよ写真にせよ、閲覧することが目的だし、閲覧には時間が必要だ。この勢いで思い出のデータが増えていけば、人生に残された時間では処理できなくなる量になるかもしれない。
デジタル化の過渡期を過ごしたわれわれの世代ですらそうなのだから、デジタルネイティブが所有する思い出の量が将来的にどうなるのかなど、想像もできない。いくら技術が向上したところで、時間を超越するテクノロジーはいまだ見えていない。
限られた時間の中で無尽蔵に増えていく思い出を振り返る時間は、どれくらい残されているのだろうか。クラウド上にデジタル化した思い出を残しても、そのサイズが人生における思い出の処理に割ける時間を凌駕すると思うと、そもそも残す意味も薄く感じる。
紙をあきらめきれずにデータに逃がし、ローカルに保存するリスクに耐えられず、クラウドに逃がす。そして、このクラウドのデータとて未来永劫残す意味はないわけで、誰かがゴミ箱に捨てなければならないだろう。では、いったい誰が私の思い出をゴミ箱に入れて空にするのか。
その役目を自分以外にゆだねるのも無責任な気はするし、後世に残すのも迷惑な話だろう。おそらくはこの思い切った断捨離は自分で実行するしかないのだろうが、捨てる作業に至るまでが思いのほか長いことに気がつき、まだ最初の一歩が踏み出せていない。
写真と文:矢野裕彦(TEXTEDIT)
編集者。株式会社TEXTEDIT代表取締役。株式会社アスキー(当時)にて月刊誌『MACPOWER』の鬼デスクを務め、その後、ライフスタイル、ビジネス、ホビーなど、多様な雑誌の編集者を経て独立。書籍、雑誌、WEB、イベント、企業のプロジェクトなど、たいがい何でも編集する。