世界的なパンデミックを引き起こしたウイルスは、「新型」となる前、ありふれた「かぜ」のウイルスだった。身近であるがゆえに研究が進んでこなかった「かぜ」の研究に、国内トップの研究機関が着手したことが話題になっている。そして、それは新しい研究手法であるスマートフォンを使用したものだという。経緯について詳しく話を聞いた。
“かぜ”研究の可能性
日本の感染症研究の本拠地の一つ、国立国際医療研究センターの国際感染症センター。同センターが2021年1月にリリースした無料アプリが医学界やヘルスケア業界内で注目を集めている。アプリ名は「かぜレコ」。読んで字の如く、かぜ(風邪)にフォーカスしたアプリだ。国内トップレベルの研究機関がなぜ今“かぜ”なのか。背景には、単にコロナ禍ということ以上の、感染症研究への取り組みがある。
あまり知られていないことだが、かぜという言葉は、実は正式な病名ではない。一般にかぜとして認識される症状をあらわす症候群であり、その原因はさまざまだ。もはや世界中で知らない人はいないだろうコロナウイルスも、それが“新型”に変異するまで、かぜの原因ウイルスの一つにすぎないと見なされていた。そして、ありふれた病気であり、命を脅かすほどの脅威ではないと認識されてきたがゆえに、これまでかぜの研究はあまり進んでこなかったのだ。
そんなかぜだからこそ、医療関係者の間では「かぜの特効薬を開発できたらノーベル賞」などとされる。つまり、かぜの研究が進めば、それは世界を進歩させることになるのだ。新型コロナ感染症の治療法が私たちの生活をよりベターな方向に変えたことを思えば、それが言い過ぎでないことがわかるだろう。
その再出発の一歩でもある「かぜレコ」について、研究の発案者で中心となる同センター薬剤師の寺田麻里研究員と、監修者で同センターのセンター長、そして新型コロナウイルス感染症対策において国のアドバイザリーボードや東京都のモニタリング会議のメンバーでもある大曲医師に話を聞いた。
国立高度専門医療研究センターである国立国際医療研究センター(NCGM)の国際感染症センターは、日本における感染症治療の代表的な研究機関。国際感染症センターは、国内で4カ所ある特定感染症指定医療機関の一つとして、日本の感染症の研究・教育・治療をリードしている。
国立国際医療研究センター・国際感染センターセンター長の大曲貴夫氏。1997年佐賀医科大学(現:佐賀大学)医学部医学科卒業。2012年より現職に就任。感染症一般の臨床、病院内外の感染防止対策、感染症に関する危機管理を専門とする。
感染経路の解明へ
「かぜレコ」は、かぜの発生や流行について調査するアプリ。16歳以上が参加可能で、データは国際感染症センターの研究「スマートフォンを利用した青年期および大人の風邪に関する疫学調査」のために収集される。開発にはこうした医学研究用アプリではおなじみになったアップルのリサーチキット(ResearchKit)が使用されており、iOS版が2021年1月に、アンドロイド版が6月にそれぞれ公開された。
「かぜレコ」では、ユーザの体調やかぜの症状について、アンケート型とセンシング型を組み合わせて調査する。アンケート型調査では、身長・体重・体温などの数値を入力して、また体調やストレスについての質問に選択肢やスケールバーで回答する。センシング型調査とは、スマートフォンに内蔵されているセンサによる計測で、アップルデバイスであればiPhoneやアップルウォッチで取得されたヘルスケア情報が提供される。また、大まかな位置情報も提供されることで、研究に参加した場合、ユーザが登録したエリアにおける最近2週間のかぜ発生状況や、それ以前の発生状況、都道府県別の情報を知ることができる。
寺田研究員はアプリ開発の目的を「ユーザからかぜのような症状の有無やその内容を回答してもらい、大まかな位置情報と照らし合わせることで、かぜの発生から流行となって拡大するまでを、医学の観点から調査するため」とする。
「コロナ禍より前、咳をしている人を見かけて『そういえば○○さんも咳をしていたな』と似ている症状が流行している可能性に気がつくことがありますよね。かぜは職場や家族など局所でうつり、それが伝播することで感染経路が複雑になっていきます。アプリを研究に使用すれば、これまで難しいとされてきたその調査が可能になるのでは、と思いついたんです」(寺田氏)
また、収集されたデータを気象情報と重ね合わせて解析することで「かぜが発生しやすい気象条件や流行・拡大しやすい気象条件を明らかにしたい」と寺田研究員。天気予報の「洗濯指数」や「アイス指数」のように、ゆくゆくは概念を普及させて広く「かぜ指数」を示すことができたら、とその展望を語る。
さらに、新型コロナ感染症でもかぜの症状が出ることもあるため、同アプリでは、新型コロナ感染症だったが自然治癒して受診しなかった軽症者の情報を収集したり、クラスターなどを検知したりすることで、感染拡大防止に寄与する可能性があるとする。
課題は、ほかの医学研究アプリ同様に「調査への参加者の獲得が難しいこと」。2024年3月末までに1万人以上のデータを集める計画に対してユーザ数にはやや不足があると明かすが、コロナ禍においては「研究に協力したい」として参加するユーザも多くいるという。
コロナ禍で高まる機運
ただし、このアプリは新型コロナ感染症が流行する、約1年前から計画されていたもの。パンデミックはある意味でこの研究やアプリ開発の“追い風”になったが、主眼はあくまでも「かぜ研究」に置かれている。
取材から窺えるのは、これまでいわば“あと回し”になってきたかぜ研究への機運の高まりだ。大曲医師も「ここまでかぜが注目されたことは未だかつてないのでは」と話す。
大曲医師自身は「薬剤耐性菌」の研究をその専門の一つにしている。薬剤耐性菌とは抗生物質が効かない細菌で、それが発生する理由の一つに、かぜへの抗生物質の投与がある。前述したように、かぜ症候群の原因となる病原体はさまざまだが、8~9割はウイルスであることがわかっており、細菌は残り1割。一方、抗生物質は細菌に対して効果がある薬でウイルスにはないが、患者が求めるなどの理由で、かぜに処方されることがままある。そして、こうした抗生物質の乱用が薬剤耐性菌を発生させる。「かぜレコ」にも抗生物質の処方についての質問があり、実態の把握により、その適正処方にも寄与するだろう。
視点を変えれば「新型コロナウイルスのパンデミック」「薬剤耐性菌の発生」という医学的な大問題がない限り、かぜの研究は進まないとも言える。「かぜレコ」関連でも、計画時点では研究開発費の捻出がしにくい経緯があった。今は国内トップレベルの研究機関である国際感染症センターとして、「かぜ」そのものをメインとした研究の機が熟したと捉えることもできるだろう。
これまで分析が難しかった感染経路などの疫学調査が、現在の高いスマートフォン普及率を背景に、アプリという新しいツールにより可能になったということも忘れてはならない。あまりに身近であるために長らく遅れてきたかぜの研究には、瞬く間に身近になったスマートフォンによって、思わぬブレイクスルーが起きるかもしれない。
大曲医師は「スマートフォンやアップルウォッチなどのウェアラブルデバイスは、研究の流行りといったレベルを超えて、研究を推進するエンジンになりつつある」と見る。コロナ禍で存在感を増す感染症対策のキーオピニオンリーダーは「新しい研究により医療は変わる。感染対策にも活かしたい」と語った。
かぜレコ
【開発】国立国際医療研究センター
【価格】無料
【場所】App Store>メディカル
ResearchKitを用いた「かぜレコ」は、かぜについて調査するアプリ。生活習慣やかぜ症状の有無についてアンケート調査を行うとともに、スマートフォンと連係してセンシングしたヘルスケアデータを取得する。??コロナ禍を背景に、アンケート調査にはリモートワークやマスク着用についての項目もあり、新型コロナウイルス感染症拡大防止にも寄与する。
ユーザから収集したデータを分析することで、各自の「風邪スコア(かぜへのかかりやすさ)」やその推移がわかる。また、ユーザの位置情報により、所在エリアにおける最近2週間のかぜ発生状況や、それ以前の発生状況、都道府県別の情報をマップで確認することができる。
「かぜレコ」のココがすごい!
□ 国際感染症センターが、かぜ医学研究のためにアプリを提供
□ 東かぜのなりやすさを示す指数や感染状況マップを確認できる
□ 遅れていたかぜ感染の実態解明をスマートフォンにより推進する