私が教鞭を執るiU(情報経営イノベーション専門職大学)では、2年生から「ケーススタディ・ケースメソッド」の授業があります。学生は世界中で流通する企業の実際のデータや経営判断の記録などをまとめた5~30ページ程度のケース(事例)を読み、課題について個人で考え、クラスの中で討議をする。これが、毎回の授業の流れです。
ケース内の時代や企業、登場人物に注目して、その現場で起きている企業ドラマや人間ドラマにどっぷり浸かることができれば、非常に味わい深い学びを得ることへとつながります。「ケースを学ぶことは楽しい!」と学生へ伝えたい一心で、講義と向き合う日々です。
5月に入り、電気自動車メーカーのテスラ、ライドシェアサービスのウーバーと、クルマに関係するケースを2つ扱いました。一昔前なら、若い人はすべからくクルマに興味を持っていたので扱いやすい内容だったはずが、とにかく今の若い世代は関心がありません。その証拠に、私のクラスでは、1割の学生しか普通免許を取得していませんでした。
そのため、テスラが初期に高級セダンのモデルSを投入した理由を考えてもらっても、「加速力が良い=エンジンの性能が高い=高性能エンジンを開発できるブランドは高級」というクルマにおける価値観が学生にはわかりません。価値観の把握は、とにかく“体験”が物を言いうのです。
今、新しい価値観の兆しがあります。それが、アップルミュージックの「空間オーディオ」対応です。アップルはオーディオファンを唸らせるべく、同時にアップルミュージックのロスレスオーディオ配信も開始しましたが、本命は空間オーディオで間違いないでしょう。
音を鳴らす位置を指定できる「ドルビーアトモス」音声フォーマットと、アップルが培ってきた複数スピーカから音が出ているように錯覚させる「サイコ・アコースティック」の組み合わせによって作り出される“体験”が、空間オーディオの特徴です。
実際に空間オーディオに対応したさまざまな音楽を聞いていると、立体的な音の表現がなされていて、圧倒的な没入感を得られると同時に、別の感覚も芽生えてきました。ふと「音が良い」と思うようになったのです。もちろん、ロスレスのようにビットレート的に高音質というわけではありません。ひとつひとつの音が奥行きを持って分離されて、空間で溶け合う様子が再現されたことで、ビットレート以上に音の情報量が増えていると感じたのです。
オーディオがモノラルからステレオに移行した時代、ステレオであることが「高音質」だという価値感がありました。ステレオが当たり前の今でこそ、レコードやカセットテープに書かれた「STEREO」という文字に魅力はありません。もちろん音質とチャンネル数に相関関係はありませんが、当時はこの6文字のアルファベットが「高音質」の目印だったのです。
今までiPhoneのスピーカで音楽を楽しんでいた若い世代が、エアポッズプロ(AirPods Pro)などで空間オーディオを体験することで、それが「高音質」という新しい価値感を作り始めていく。もしかしたらアップルは、空間を意味する「SPATIAL」を、「STEREO」のように高音質の目印にしようとしているのかもしれません。
それはまさに「高音質」の価値感のアップデート。ハードウェアやソフトウェア、オーディオ処理のノウハウからして、アップルにしか実現できないことでしょう。これは強烈な競争優位性を作り上げるケースになりそうです。
Taro Matsumura
ジャーナリスト・著者。1980年生まれ。慶應義塾大学政策・メディア研究科卒業後、フリーランス・ジャーナリストとして活動を開始。モバイルを中心に個人のためのメディアとライフ・ワークスタイルの関係性を追究。2020年より情報経営イノベーション専門職大学にて教鞭をとる。