肩こり・腰痛などの「慢性疼痛」を抱える人は、日本国内で約1700万人。その経済損失はなんと2億円という試算もある。治りにくく、理解もされにくい、この隠れた国民病の正体を明らかにしようとする動きが、ついに始まった。医師らが制作した「見えない痛み」を診るアプリ。はたして人は将来、長く続く痛みから解放されるのか。
なぜ痛みが長く続くのか
「低気圧が近づいて来たからか、頭痛がひどい」「寒くなると、どうも肩や腰が痛む」――当事者にとっては一大事だが、周りの人には正直わかりにくい「痛み」という悩み。無理解ゆえに「仮病じゃないの?」と疑われ、嫌な思いをする人も少なからずいる。
一方、このような「慢性疼痛」、つまり長く続く痛みを抱える人は、日本国内の成人の13・4パーセント、約1700万人にのぼるとされる。肩こりや腰痛などを含む慢性疼痛全般により、生産性が低下して発生する損失の試算は、1週間平均で4.6時間、金額にして1兆9530億円。痛みは決して他人事ではなく、今や国民病となっているのだ。
このような患者の悩みを解消するために、医師が中心となり開発されたアプリがある。順天堂大学医学部附属練馬病院が、アップルの医学研究用フレームワークであるリサーチキット(ResearchKit)を活用して制作した「いたみノート」だ。制作者の1人で、同病院メンタルクリニック准教授の臼井千恵医師は、このアプリを「“見えない痛み”を診るアプリ」と表現する。
このアプリにはどんな機能があるのか、また、慢性疼痛にどんな効果があるのか。臼井医師、そして開発を担当したメディカルローグ株式会社を取材した。
そもそも長く続く痛みはどうして発生するのか。臼井医師は原因として「炎症や刺激による痛み」「神経が傷害されることで起きる痛み」に加え、「心理・社会的な要因」もあり、「あらゆる原因が複雑に絡み合って発症するため、一概には言えません」とする。そのうえで「患者さんが“痛い”と言っているのなら、痛みはあるのです」と言い切る。
「痛みは当事者以外には理解されにくい一方、特に日本人は少しの痛みであれば我慢してしまい、医療機関を受診しない方が非常に多い傾向にあります。また、慢性疼痛を抱える人のうち、痛みの症状が改善しない人は77・6パーセントとの調査結果もあり、このような方々は痛みのために生活に支障をきたし、QOL(生活の質)が著しく低下しています」(臼井医師)
慢性疼痛は、原因が複雑であるがゆえに薬が効きにくいと臼井医師はいう。「この現状をなんとかしたい」長らくそう考えていた臼井医師は、スマートフォンアプリならどうかと思い至る。面識のあったメディカルローグに相談すると、リサーチキットでの開発を提案されたという。
「痛みの原因や状況は患者さんによって千差万別なので、たとえば“どんな運動をすると”“どんな睡眠状況だと”“どんな気象だと”痛みが発生するかなどについて、医師が正確に観察するのは難しい。しかし、iPhoneを活用すればそれらのデータを常時、収集することができます。複雑に絡み合ったその人個人の痛みの原因を、解き明かせる可能性が高まるのです」(臼井医師)
痛みのセルフコントロール
いたみノートでは、ユーザはその日の痛みを、痛みのレベルを示す顔文字で、気象条件(自動的に表示)とともに記録する。また、メモにはその日の体調などを記録しておく。これらの記録により痛みの変化が可視化され、どんな条件のときに痛みが出るのかが把握できる。これは「セルフコントロールや重症化の予防につながる」と臼井医師。
「たとえば、雨の日に睡眠不足の条件が重なると、痛みが出やすい方がいるとします。雨が降るのを防ぐことはできませんが、睡眠不足なら対処のしようがある。こうして、自分の痛みの原因を特定できれば、原因不明の状態よりも、ずっと楽に痛みと付き合うことができるようになるのです」(臼井医師)
また、「痛みレポート」機能では、ユーザは痛みや鬱、睡眠についてのアンケートに回答。入力した情報は専門家が作成したアルゴリズムにより分析され、「うつがあるかもしれないので、早めに医療機関を受信したほうがいいかもしれません」といったアドバイスをもらうこともできる。
メディカルローグCTOの間地泰正氏は、このアプリの特徴として、日本各地で痛みを抱えるユーザの分布をリアルタイムで確認できる「みんなの痛み」マップを挙げる。たとえば、低気圧が近づくと、より強い痛みを示す顔文字が全国に広がり、「自分だけじゃない」と感じることができるという。
決して上から目線ではなく、共感性の高い作りになっているこのアプリ。その理由は、臼井医師の「“見えない痛み”を診る」という信念にある。自分の痛みが他人に理解されにくいというのは、相手が医師でも起きること。医師に痛みを上手に伝えることができず、通院を断念してしまう患者も多い。だからこそ、この信念を持つに至ったという。
せめて楽しく、痛みを記録できるようにしたい。そう思って盛り込んだ機能には、ほかに「笑顔レベルの記録」がある。ユーザは痛みレベルの入力後に、笑顔のセルフィーを撮影。その笑顔レベルによって精神状態を分析する、というものだ。痛みが改善されるほど、笑顔レベルは上がっていく。しかし、患者には「まったくの不評」と臼井医師は明かす。
これは、そもそも一定以上の年齢の患者さんには、セルフィーのハードルが高いから。しかし実は、表情を認識し、分析するこの機能は、技術的に高度な仕様のひとつ。それでも、最後は笑って入力を終えてほしいという臼井医師のたっての希望で導入した。その評判には間地氏も「いろいろと苦労したのですが」と苦笑するばかりだ。
メディカルローグ株式会社CTOの間地泰正氏(右)と、開発ディレクションを担当した同社マネージャーの下澤一麻氏(左)。臼井医師からの相談をきっかけに「いたみノート」開発を提案。過去にも「アレルサーチ」などで順天堂大学と医療アプリを制作した経験があった。
痛みの原因究明なるか
リサーチキットを活用する以上、単に役に立つだけでなく、研究につながるアプリでもある。集めた痛みの情報をビッグデータ的に解析し、慢性疼痛やそれを悪化させる原因の究明につなげることが目的だ。ユーザから同意を得たうえで、病歴や生活習慣、運動や睡眠の状況などの情報がバックグラウンドで収集され、痛みの変化との関係が研究されている。
メディカルローグで開発ディレクションを担当する下澤一麻氏は、いたみノートにより、痛みが起きてから治療するのではなく、予防医療へシフトすることで、「2兆円近い経済損失を防ぐだけでなく、将来の医療費削減にも貢献していける画期的なアプリ」と自信をのぞかせる。同社はリサーチキットによる開発事例が国内でもっとも多い企業でもある。
もちろん、iOSアプリであるがゆえに、ユーザはiPhoneを持つ人に限られる。研究結果に一定のバイアスはかかるが、これはリサーチキットにより開発されたすべてのアプリにいえること。「(リサーチキットの)制作しやすさ、それによりすぐに患者さんの役に立てるメリットのほうが大きい」というのが開発チームの総意だ。
2018年6月の公開以降、ダウンロード数は2200と、当初の目標をクリアした。研究にはさらなるユーザ数が必要であるため、目標は3000に変更。ただし、広告などによる認知拡大は研究データの質の低下を招く恐れがあり、実施しにくい。アプリは現在、患者の口コミを中心に広がっているという。これもやはり、共感性の高い作りによるものだろう。
冒頭で述べたように、潜在的には大きな需要が見込まれるこのアプリ。ジレンマは、ユーザ数が伸びないと、慢性疼痛の原因究明が進まない、という点だ。もし、あなたが痛みを抱え、他人に説明するのをためらってきた1700万人のうち1人なら。こっそりでいい。アプリをダウンロードしてみるのも一手かもしれない。
いたみノート
【開発】順天堂大学
【価格】無料
【場所】App Store>メディカル
いたみノートでは、運動量、睡眠、気象などの生活情報と痛みレベルを連動させ、痛みの変化を可視化。記録によって痛みの重症化の予防とセルフコントロールできる。また、ユーザへのアンケートの回答から、痛みや睡眠、うつの評価をフィードバック。さらに、臼井医師の願いを込めた、笑顔レベルチェック機能も搭載している。上のQRコードからぜひダウンロードして利用してみるとよいだろう。
「いたみノート」のココがすごい!
□個人ごとに肩こり・腰痛などの原因を特定できる
□痛みのレベルを記録し、長期的な変化も把握できる
□治りにくい慢性疼痛のメカニズムを解明する可能性