MacやiPhone、iPadの標準日本語フォントは「ヒラギノ角ゴシック」というもの。このフォントは、読みやすいだけでなく、デザイン的にも美しい。
MacやiOSデバイスの上質なデザインには、ヒラギノフォントが使われていることも大きく貢献している。このヒラギノフォントは、どういったフォントなのか。これが今回の疑問だ。
※この記事は『Mac Fan』2012年10月号に掲載されたものです。
ヒラギノはもともと雑誌本文用フォント
MacやiPhone、iPadの標準日本語フォントには、「ヒラギノ角ゴシック」(以下、ヒラギノ角ゴ)が使われている。書体やデザインに興味がある人は、このヒラギノフォントがいかに素晴らしい書体であるかはひと目でわかるだろう。
書体の字面から、「クールでモダン」「洗練された都会らしさ」などのイメージが伝わってくる。Appleの製品は一目見ただけで美しさを感じるが、その要因は概観のスタイルやインターフェイスの美しさだけでなく、美しいヒラギノフォントを採用している点にもあるだろう。
ここで特に重要なのが、ヒラギノフォントは「液晶ディスプレイ用にデザインされたフォント」ではないということだ。もともとは大日本スクリーン製造の依頼を受けて、字游工房により「広告やファッション雑誌の本文」に採用されることを狙って制作された。さらに、ひらがなは平安時代の美しいかな文字を意識してデザインされている。続けて書くかな文字であるために、縦書き用かな文字と横書き用かな文字を別々に作成するという凝りようだ。
実際、ヒラギノ明朝は『二〇世紀年表』(毎日新聞社)の本文書体や、お菓子のパッケージ、広告などに盛んに使われている。Appleがヒラギノフォントを正式採用したことは、とても理にかなっている。以前のOsakaのようにディスプレイ用に開発されたフォントではなく、紙媒体用に開発されたフォントを採用したことに意味があるのだ。
高速道路にも駅にも街にもあるヒラギノ
最初に開発されたヒラギノ明朝の特徴は、「フトコロが深い、つまり画と画の間が広く空いている」「字面が大きめ」「重心がやや上にある」などだ。このことから、小さな文字でもつぶれずにはっきりと読める。これは小さめの文字が使われることが多いファッション雑誌などを想定したのだろう。
Apple製品で基本フォントとして使われるヒラギノ角ゴは、ヒラギノ明朝と混在されることを想定して開発されたものだ。そのため、ヒラギノ明朝の主な特徴を受け継いでいる。このほかにも「シンプルなベクトル」(画の方向をできるだけ単純化する)、「画の端のアクセント」(少し太くなり、曲線で切られている)などがある。つまり、ヒラギノ角ゴも、小さくてもつぶれずにはっきりと読める書体なのだ。
このことは思わぬ用途を生むことになった(開発した字游工房は当然射程に入れて開発を進めたのだろうが)。文字がつぶれにくいヒラギノは、液晶ディスプレイでの表示にもうってつけだったのだ。
Retina以前の液晶ディスプレイは、印刷に比べると解像度が粗い。これはまるで視力の悪い人が見ているような具合になる。このとき、ヒラギノ角ゴは条件の悪い中で、字体がつぶれづらく、はっきりと読むことができる。Appleが採用を決めたのは、デザインの美しさとともに、この実用的な面も評価してのことに違いない。
また、遠くから見やすいということで、ヒラギノ角ゴは屋外看板などにも採用されている。ご存じの方も多いだろうが、日本道路公団(JH)の高速道路の行き先案内板は、「ヒラギノ角ゴW5」が採用されている。もちろん、遠方からの可読性がいいために、安全運転の助けとなるという理由からだ。
さらに、関東の横浜から海老名、湘南台を結んでいる相模鉄道では、駅の駅名表示板にヒラギノ角ゴを採用している。視力の悪い乗客にも看板を見やすくするための「情報バリアフリー」の一貫として採用された。
さらに、最近液晶ディスプレイ表示に適したヒラギノUD(ユニバーサルデザイン)というバリエーションフォントも開発された。これはさまざまなカーナビ用フォントとして採用されている。また、ヒラギノ角ゴを元にして、中国語の簡体字に直した「ヒラギノ角ゴ簡体字版」も開発され、これは中国政府にも承認され、Mac OSの中国語表示の標準書体となっている。
大日本スクリーン製造は、中国からフォント使用に関する莫大な(?)ライセンス料を得ているはずで、日本はこういった面でまだまだ国際経済市場で活躍する余地が十分にある。この簡体字版ヒラギノは、日本の街角にある案内表示の中国語表記用としても今後目にする機会が多くなっていくはずだ。
苦闘の末に生まれた見やすさと美しさ
ほかのPCやスマートフォン、たとえばWindowsでは「メイリオ」というフォント、Androidでは「Android Sans Japanese」、あるいは日本のスマホでは各メーカー採用のフォントなどが標準フォントとなっている。それぞれ、よく工夫されており、決して悪くはないのだが、いずれも「液晶ディスプレイに表示するために開発された」ものだ。ヒラギノとのこのアプローチの違いは大きい。
最初から液晶表示だけを念頭に置いて開発すると、どうしても見やすさだけを追求してしまう。ヒラギノのように、見やすさと美しさを両立させるための苦闘の跡が感じられないのだ。ヒラギノの持つ読みやすさと美しさの調和は、最初に紙媒体で使われることを念頭に開発された結果だと思う。
今後、他社からもRetina相当の高い解像度のディスプレイを搭載した製品が出てくるだろう。しかし、液晶ディスプレイ用に開発されたフォントを使っていたら、それはRetinaのコンセプトを理解していないと考えていい。
スティーブ・ジョブズは、1984年にMacintoshを発表して以来、「ディスプレイと印刷物の境目をなくす」ということをやってきた。当時の技術ではまだまだ難しい面はあったが、ディスプレイの解像度を72dpiに固定する、いち早くアウトラインフォント(TrueType)に挑戦するなどの数々の試みを行った。それから約30年。ようやくRetinaディスプレイが登場して、ディスプレイと印刷物の違いはほんのわずかなところまで迫った。
Retinaは、Appleが30年間やってきたことの1つの頂点に達したものなのだ。これを単なる「美しい高解像度ディスプレイ」としか見られないと、Apple製品に内在するパワーを活かす使い方はできないと思う。そして、ちょっと意地が悪いのだが、そこを勘違いした他社製品がドヤ顔で「高解像度」だけを売りにした類似製品を登場させてくるだろうと、私はiPadを手にしながらほくそ笑んでいるのだ。
著者プロフィール
牧野武文
フリーライター/ITジャーナリスト。ITビジネスやテクノロジーについて、消費者や生活者の視点からやさしく解説することに定評がある。IT関連書を中心に「玩具」「ゲーム」「文学」など、さまざまなジャンルの書籍を幅広く執筆。