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黒ずんだiPhone

著者: 藤井太洋

黒ずんだiPhone

イラスト/灯夢(デジタルノイズ)

「ハチヤ、来てくれてありがとう」

王宮にほど近いコンドミニアムのテラスハウスに「急ぎだ」と言って呼び出したトビー早志は、捜査員でごった返すエレベーターホールでおれを出迎えた。

「なんの事件?」

現場で話すよ、と言ったトビーは、おれを従えて急ぎ足で部屋を抜けていった。通り過ぎていくおれたちへ、POLICEのロゴを背負ったジャンパー姿の捜査員たちが合掌の挨拶(ワイ)を送ってくる。親指を鼻の頭につけて、最高の敬意を払ってくれる捜査員もいた。微笑みを返しながら、トビーが日本語で言った。

「ここに住んでいた日本人が殺された。五橋智則(ごばしとものり)。知ってるでしょ」

「……バンコクにいたの?」

トビーは頷いた。構造改革推進論者として日本政府のアドバイザーを長く勤め、二〇〇七年に政界を離れたあとは広告代理店の取締役に就任し、オリンピック誘致を積極的に行っていた男だ。

「ここだ」と言ったトビーは書斎へ手を差しのべた。部屋を一瞥したおれは思わず息を呑んだ。窓際のデスクに鎮座した二十七インチのiMacは、液晶がひび割れ、画面が血にまみれていた。

「後ろから撃たれた。今朝のことだ」

「犯人はわかってるんだろ」

「よくわかったね」

おれは捜査員を見渡した。

「みんなじっくり仕事してる。焦ってない。それに、もし犯人が捕まってなければ、中に入れるわけがないよ」

「お見事。だけど、犯人は捕まってない。逃亡中に撃たれて死んだ」

トビーは、iMacの奥に手を伸ばして、両手で大きな白い本を取り出した。

デザインド・バイ・アップル・イン・カリフォルニア。ジョブスが復帰した後の二十年間に産み出されたアップル製品の写真集だ。トビーが抱えている大判サイズは二百九十九ドルだった。

「懐かしいね。ストアに展示されてた頃を思い出すよ。五橋さんがアップルファンだったとは思わなかった」

「そうでもない」

トビーはiMacの脇に本を置き、中程のページを開いた。おれは思わず声を上げた。四五〇ページある分厚い本の中央部が小さくくり抜かれていたのだ。トビーは穴に指を這わせた。

「ここに何が入っていたか知りたい。犯人が持ちだしたんだ」

「犯人は持ってなかったのか?」

「手ぶらだった。だけど、家政婦が発見したときこの本はここにあって、このページが開かれていた。犯人の指紋も出ている。持ち去ったんだ」

おれは穴を見なおして断言した。

「初代iPhone、2Gだ」

「プロイ警部!」

トビーの鋭い声に、部屋の外から私服の警察官が飛び込んできた。トビーがタイ語で「盗まれたのは初代iPhoneだ」と告げると、プロイと呼ばれた警察官は電話を掛けながら部屋を飛びだしていった。その様子を満足げに見やったトビーは、おれに顔を向けた。

「バンコクにハチヤがいてよかったよ」

トビーとおれはリビングで報せを待つことにした。ひとり暮らしだったらしい五橋が寝そべっていたであろうホスト側の大きなソファに、トビーはちょこんと腰掛けていた。

おれとトビーの間のテーブルには写真集が置いてあった。

おれは白いリネン張りの表紙に手を伸ばし、小口をこちらに向けた。箔押しされた銀は、手が当たるところが薄くなっている。持ち主が何度も開いていた証拠だ。八色分解に使われたインクのうち、オレンジは褪色が始まっている。これも持ち主がちゃんと見ていた証拠だ。

残念なことに、繰り返し見ていたせいでリネンで覆われた表紙の、手に当たる部分は黒ずんでいた。

「だいぶ丁寧に扱ってたんだな」

トビーはかぶりを振って、iPhoneが収まっていた穴を指さした。

「なにが丁寧だ。穴を空けてるんだぞ─見つかった?」

トビーの視線を追うと、先ほど飛びだしていったプロム警部がリビングに入ってきたところだった。

プロムはおれたちに最敬礼のワイをしてから、僕を気遣って英語で言った。

「逃走経路を百名体制で捜索して、見つけました。ご協力に感謝します。機種がわかっていなければ見つけきれませんでした。浮浪者が拾っていました」

プロムは、内ポケットからジップロックを取り出した。中に収められている初代iPhoneは、写真集にただひとつ掲載されている使い込まれた製品写真のように黒ずんでいた。

「ありがとう」と言って受け取ったトビーは、おれにジップロックを渡した。

「中、見られるかな」

ジップロックを受け取ったおれはトビーの顔を見つめた。

「この世代なら簡単だ。でも、なんでトビーが動いてるんだ」

トビーはプロムにちらりと視線を走らせたが、声を低めて言った。

「贈賄だ。僕はIOCの依頼で動いてる」

「東京オリンピック?」

「二〇二〇年の招致じゃない。五橋は二〇一六年招致計画に関わっていた」

おれはウィキペディアで読んだ彼の経歴を思い出した。二〇〇七年に政権を離れて広告代理店の社外取締役になった五橋が、二〇〇八年に応募した東京五輪招致計画に携わっていても不思議はない。

「でも、なんで今なんだ。五輪に賄賂はつきものだろう─確かバンコクもオリンピック招致の計画があったな」

トビーが微かに目を泳がせる。

「トビー、正直に答えてくれ。彼を殺したのは君のクライアントか? IOCの粛正に手を貸したのか?」

「違う」トビーはおれを見据えた。

「僕は彼に贈賄の証言を頼みに来ただけだ。今のバンコクでなら、IOCの力で執行猶予をつけられる。殺したのは、贈賄を隠したい旧勢力だ」

トビーはジップロックからiPhoneをとりだしておれの手に押しつけた。

「頼むよハチヤ。このiPhoneには彼がアフリカの委員と会ったときの写真が入っているはずなんだ。仇を討ちたい。信じてくれ」

「分かった。だが、旧勢力とやらが動いたのは、きみがバンコクに来たからだ。違うかい?」

トビーは唇を噛みしめた。おれは写真集を開いて手の中のiPhoneを穴に嵌めてみた。黒く変色してしまったケースはほんの少しの隙間もなく収まった。

「わかったよ」おれは言った。「バラしてストレージの中身を吸い出す。分析は誰か雇ってくれ」

トビーは一瞬目を輝かせたが、心配そうにおれの顔を覗き込んだ。心を翻した理由がわからないのだろう。

おれは本の穴にぴったり収まったiPhoneを指さした。

「下手なやつが分解すると、歪んでこの穴に入らなくなってしまう。五橋さんはそれを望まないだろう」

おれは本を閉じて、抱えあげた。

「作業は店でやるよ。終わった後、本と初代はもらっていいか? 警察にはよろしく言っといてくれ」

「構わないが、それ、どうするんだ」

「店に展示する。表紙もレストアしたいところだけど、そこは諦める」

本を抱えたおれが一階に到着したエレベーターを出たとき、トビーからメッセージが届いた。

《僕の持ってる美品を一冊送るよ》

藤井太洋

2012年、セルフパブリッシングの『Gene Mapper』でデビュー。『オービタル・クラウド』で第35回日本SF大賞、第46回星雲賞日本長編部門を受賞。