場所にとらわれないためのIT
田中クリニック・院長の田中佐和子医師は地域のかかりつけ医として、連日多くの患者の診療を行っている。同クリニックを支えているのが「ペーパーレス」と「デバイスフリー」を両立したIT環境だ。病院の内外からいつでも、デバイスを問わずに必要な情報を見られる環境を作り、無駄を削減して効率的な診療を可能にしている。
同院は、2008年の開業時に電子カルテシステムを導入した。当時、開業医が電子カルテを導入するのはまだ珍しいことだったが、ペーパーレス環境を目指して導入したという。現在、電子カルテやX線写真などの患者の情報は、複数のサーバに集約されている。検診の検査結果など、患者の医療情報には原本が紙の物も多いが、こうした情報はドキュメントスキャナ「スキャンスナップ」で電子化し、医療情報用のデータベース「RS_Base」に登録している。
サーバ上の情報は、診察室に置かれたデスクトップPCだけでなく、iPadからも参照できるようになっている。田中医師は紙の資料をデータ化し、場所やデバイスにとらわれず閲覧できる現在のシステムをとても便利だと語る。
「スキャンしたデータをサーバで共有するという仕組みのおかげで、何かを調べるためにいちいちパソコンに向かったり、膨大な紙の山から資料を探さずに済むようになりました。また、iPadが院内のシステムにつながったのも画期的でした。診療時間外、たとえば夜、ベッドに入ってから患者さんのデータを確認したくなっても、すぐにその場で見られるようになったのはうれしかったですね」
田中クリニックは田中医師の自宅の1階に診療所を構えている。家のどこからでもカルテのデータを確認できるというわけだ。
「いちいち下に降りてカルテを見なくても済むのは、本当に助かります」
現在は、iPad2台とiPadミニ、さらにiPodタッチの計4台のiOSデバイスが使われている。これらのデバイスはサーバ上のデータを参照するだけでなく、患者とのコミュニケーション、診療中のインターネットアクセスや、クレジットカードの決済など、さまざまな用途に活用されている。これには、インターネットに接続するデバイスをiOS機に限定することでセキュリティを高める狙いもある。
情報漏えいを防止するため、電子カルテのサーバはインターネットから切り離されており、院外からのアクセスはできない。ただし、専用に作ったアプリケーションで電子カルテ内の最低限の情報を抽出し、セキュアな接続で院外からもアクセスできるようにしてある。外出中の問い合わせにすぐに答えるためだ。
「診療時間外には、病院にかかる電話を携帯電話に転送しています。比較的多いのは、薬剤師さんや患者さんからの薬に関する問い合わせです。このシステムのおかげで、病院の外にいるときでも処方した薬をきちんと確認して返事ができます」
転院した患者のいる病院から、手術直前に問い合わせが入ったこともある。田中医師は外出していたが、院外からこの問い合わせに対応できたときには、外からアクセスできるようにしておいて本当に良かったと感じたそうだ。
「普通の人はプライベートと仕事を分けたいと思うのかもしれませんが、私の場合は全部一緒にしたほうがやりやすいところがあります。万が一、薬の処方ミスのようなことがあったとき、どこにいても確認できれば、医療事故が発生する前に防げますから」
iPadが変えたワークフロー
開業医の重要な仕事に、毎月の診療報酬明細書(レセプト)のチェックがある。レセプトを作成する専用のソフトウェアもあるのだが、最終的には一枚一枚の明細を医師の目で確認する必要があるという。以前はすべてのレセプトを紙に印刷してチェックしていたが、かさばるし、チェック後にはシュレッダーを通して廃棄する手間もかかる。
そこで、ソフトからレセプトをPDFで書き出し、iOSアプリ「アクロバット・リーダ」を使ってiPadでチェックするようにした。修正点があれば注釈機能で記入する。
「レセプトのチェックは、どうしても一覧性の問題から紙に印刷しなければできないと思っていました。でもiPadを使ってチェックしてみたら、紙とほとんど変わらないので驚きました」
高精細なレティナ・ディスプレイのおかげで、違和感はまったくないという。
田中医師は1994年に発売されたMacintosh LC 575以来のMacユーザで、現在はMacBookエアを所有している。ただ、業務にiPadを導入してからはMacの使い方が大きく変わったという。
「長いメールの入力や、発表用のプレゼン資料を作るときにはMacBookエアを使いますが、それ以外の作業、特に何かを読む作業はほとんどiPadとiPodタッチで済んでしまいます」
田中クリニックのシステムには、このほかにもさまざまな工夫が盛り込まれている。診察室には電子カルテの入ったPCと、X線画像を見るためのPCが並んでいる。2台のPCが別々に稼働しており、ディスプレイも2つ設置されているのだが、たとえば電子カルテで患者の情報をディスプレイに表示すると、自動的にX線の画像が隣のディスプレイに表示される。2つのPCが連動する仕組みを作ることで、同じ患者の情報を何度も検索する手間を省いている。
また、仮想化ソフト「VMウェア」を使って数台の検査器用PCを仮想マシンにして、サーバに集約しているという。病院にはさまざまな検査器があるが、多くの検査器がデータ処理に専用のPCを必要とするため、検査器が増えるとPCも増えてしまう。限られたスペースを圧迫するだけでなく、検査のたびにPCの起動を待つ必要があり、時間の浪費にもつながっていた。また、検査器本体の寿命が来る前に、PCが壊れてしまうこともあるという。
「たとえば睡眠時無呼吸症候群の患者さんは、睡眠中のデータを取るための機器を家に設置しています。患者さんは日々のデータをSDカードに入れて持ってくるのですが、このデータを見るためには、当然専用の検査器が必要なんです。以前は患者さんが来るたびにいちいち検査器の前まで行って、PCを起動してデータを読み込ませていたため、時間もかかりましたし、その間、患者さんを待たせることになっていました」
そこで、検査器用PCの内容をそっくりサーバ上の仮想マシンに移し、診察室のパソコンからリモートコントロールできるようにした。今は検査器の前まで行かずとも患者の目の前でSDカードを読み取り、すぐに診断できるようになっている。仮想マシンならサーバが故障してもバックアップから復元でき、検査器に対応した古いOSのままでも運用を続けられるので、管理上のメリットも大きいという。
利便性と安全性の両立が鍵
田中クリニックのシステムは、田中医師の業務スタイルに合わせて高度にカスタマイズされたものだ。このユニークなシステムを構築したのが、事務長の田中健介氏だ。田中事務長はIT関係の仕事をしていた経験を活かして、導入システムの選定やカスタマイズ、メンテナンスなどを行なっている。
システムの構築と運用において難しいのは利便性とセキュリティの両立だ、と田中事務長は語る。
「システムの導入時からずっと、いつでもどこでもデータが見られる環境を目指していました。そのためのペーパーレスとデバイスフリーです。田中医師の要求に柔軟に応えられるように、電子カルテなどはできるだけオープンな、カスタマイズしやすいソフトウェアを採用しています。外部からVPNを使って電子カルテの内容を見られるような仕組みを作ることも可能ですが、やはりセキュリティのことを考えると簡単にはできません」
田中医師も、この点についてはジレンマを抱えているそうだ。
「もちろん、インターネット経由で電子カルテの内容が流出してしまうようなことはあってはならないと思います。その一方で、患者さんの容態によっては一刻を争うときもありますから、命を救う側としては、できるだけ簡単に情報を見たいという思いもあります。医療クラウドのような仕組みが整備されて、医療機関の間で安全な情報共有ができるようになってほしいですね」
【レセプト】
保険診療では、患者負担以外の診療報酬を保険者に請求しなければならない。記入に間違いや漏れがあれば差し戻されてしまう。この書類を「診療報酬明細書(レセプト)」という。レセプト作成用のソフトウェアをインストールしたコンピュータは「レセコン」と呼ばれることが多い。
【仮想化】
仮想化は、コンピュータの挙動をソフトウェア上でエミュレートし、仮想的にコンピュータを動かす技術だ。たとえばOS X上でMacを動かしたり、ウィンドウズを動かしたりできる。仮想化ソフト「VMウェア」では、1台のサーバ上に複数の仮想マシンを作り、ネットワーク越しに利用することもできる。