教育の未来を提示したOCW
教育関連事業は、今年になって本格的にITの世界で「ジャンル」として定着した感がある。ただし、このムーブメントは一朝一夕に生まれたものではない。
もちろん、既存のITにおけるハードウェアからソフトウェアに至る技術が教育や学習分野へ転用された背景には、社会課題の解決とその裏で蠢く投資マネーの存在がある。しかし、この一見新しく見える流れの源流は確実に存在する。
その1つが、「オープンコースウェア」(OpenCourseWare、以下「OCW」)ではないだろうか。まだユーチューブもiPhoneもない時代に誕生したOCWは、教育の未来を私たちにいち早く感じさせ、そして現在においては、自らその存在意義に大きな変革を与えようとしている。
OCWが変えてきたもの
OCWはその誕生からしてテクノロジーとは切り離せないものだった。大学や大学院などの高等教育において「正規に」提供された講義内容をWEBを通じてオープン(=無料)に公開していく活動であるOCWは、2003年に米マサチューセッツ工科大学(MIT)で始まった。当初は世界最先端のテクノロジーの総本山のようなMITの中でさえ、教授や講師が諸手を上げて参加したわけではなかったが、事務局が少しずつ学内での参加を呼びかけ、約10年をかけてすべての講義を公開することに成功した。
OCWで当初公開していたのは「シラバス」(講義要目)や講義で配付するプリントやノートなどのテキストメディアだけだったが、講義そのもの、つまり授業の音声や動画ファイル自体をWEBで公開し始めたことで一気に広がりを見せ始めたのだ。今では世界46カ国、250機関、2万2000科目の講座内容が公開されており、日本でも東大・京大・早慶など22大学が約3000の講座を公開している。
また、OCWが加速度的に広がった遠因には、テクノロジーの進化が挙げられる。中でもアップル製品の果たした役割は大きい。特に、2つのエポックメイキングなプロダクトが多大な影響を及ぼしている。その1つはiPodだ。ポッドキャストに対応することで音楽以外の用途を提案し、コンテンツを流通させられる「市場」的環境を作り上げた。iPodで視聴できるポッドキャストの中でラジオやメディア、エンターテインメントコンテンツに加えて大きな人気を誇ったのが、教育コンテンツだった。初期は音声、追って動画もポッドキャストで配信されるようになると、大学がそれぞれのWEBでプロモーションしていた講義のコンテンツをポッドキャスト経由で提供するようになった。つまり、ポッドキャストがOCWにおけるコンテンツをテキストなどの静的なものから、(講義そのものの本質に近い)音声や動画といった動的なものへと変えたのだ。
そしてもう1つが「iTunes U」の開始である。それまでポッドキャストはあくまで配信システムとして機能し、教育コンテンツはさまざまなジャンルの中の1つにしか過ぎなかった。一方で、iTunesUは教育動画や音声を専用のブランドのもとに結集させた。ある意味、これによって(単位は取れないものの)世界中の大学の講義が集まる、世界のどこにもない「大きな大学」が誕生したといっても過言ではない。
東大や京大、早慶など、国内でもさまざまな教育機関がオープンコースウェアを開き、学内で実際に利用している講義教材をネットで公開している。
ムークスは、日本語に訳せば「大規模公開オンライン講座」といったところ。アメリカの名門大学が次々と無料のオンライン講座を開設している。スタンフォード大学の教授が中心になって始めた「Coursera( コーセラ)」などがその例だ。受講した学生に大学単位を認定する取り組みも始まっている。
MOOCsの登場
筆者は2013年5月8日から10日にかけて、インドネシア・バリ島で開催された「OCWグローバル会議」に参加した。そこでの主要なテーマはOCW発足時と比べて取り巻く環境が一変した今、OCWはどこへ向かうのかというものだった。
その方向性は、「途上国シフト」に尽きるのかもしれない。ただし、このシフトは、「ムークス(MOOCs)」(MassiveOpenOnlineCourse)と呼ばれる教育業界の新しいプラットフォームによって突き動かされたものだ。IT業界には「進化をしない限り死んでしまう」という言葉がある。OCWがコンテンツ主義という課題を抱え、本格的な技術サイドの進歩を怠っているうちに、いつの間にかムークスという技術ベースの新しい教育プラットフォームの進撃を許してしまった。ムークスはOCWとは違い、単に講座内容をWEBで公開するだけでなく、宿題や試験があって、履修証明書を発行できるシステムを持つ。教育の情報化がよりシリアスな課題として捉えられている現代において、社会ニーズをより鋭敏に捉えており、現在急速に世界的な広がりを見せている。国内では今年2月、東大が国内で初めて参加を表明した。
そうした背景の中で、OCWが行った大きなシフトチェンジは、今回の会議で改選されたトップを含む人事に見ることができる。コンソーシアムの新しい会長は、米カリフォルニア大学アーバイン校のOCW学部長のラリー・クーパーマン教授となった。彼はこれまでのアフリカなどの途上国での数多くの教育プロジェクトを手がけてきた人物。また、今回の開催がインドネシア政府教育省の主催であったことも同国の教育事情が影響している。
同国の大卒の割合は1つの年代で5%以下、今後の中間所得者層の増加が見込まれることから、この割合をITとOCWなどで増やしたいという。また、地理的に1000以上の島に分散して人々が暮らしているのも高等教育を広げる障害になっており、高等教育への門戸を広げることで、少ない投資で大きな成果が得られることを期待しているのだ。
日本におけるOCW組織であるJOCW(日本オープンコースウェアコンソーシアム)を起ち上げ、OCWのボードメンバーを務めてきた明治大学教授・福原美三氏は今回の会議に参加した感想をこう語る。「会議に昔から参加してる人ほど停滞していて、新しい人ほど活発さが見られました。コンソーシアム運営陣の入れ替わりも含めて1つのタイミングにきたのかもしれません。今回、アジアで開催されたことは大きな意味を持ちます。これまで米国とヨーロッパを主軸にやってきたOCWが新たな市場としてアジアを大きく認識していることを意味します」
現在のWEB空間はOCWが開始された頃と比べれば、いくらでも無料で学べる教材やコースウェアが存在する。OCWが果たす役割は終わってしまったのか、それとも新たなステージを見つけることができるのだろうか。
新たにOCWの会長となったラリー・クーパマン氏。OCWの未来は彼の手腕にかかっている。
2億4000万人といわれる人口が、1万8000もの島々に住むインドネシア。そのほとんどは首都ジャカルタのあるジャワ島に集中する。OCWやムークスのメリットは、地理的・時間的制約を受けず、学費が払えない学習者にも学習機会が広がることだ。
OCWクローバル会議は、観光地で有名なインドネシア・バリ島で開催されため、地元の踊りなど華やかなムードとなった。
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OCWを創成期から見つめてきた福原美三明治大学教授。オープンコースウェアの役員を務めた。
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MITのオープンコースウェアには、これまで1億2500万人が訪れた。現在、2150コースの講座を無料で受講できる。
文:山脇智志
ニューヨークでの留学、就職、起業を経てスマートフォンを用いたモバイルラーニングサービスを提供するキャスタリア株式会社を設立。現在、代表取締役社長。近著に『ソーシャルラーニング入門』(日経BP社)。
『Mac Fan』2013年7月号掲載