任天堂・ファミコンが大ヒット。段永平氏は台湾の“非公認互換機”に目をつけ、中国での販売を開始する
日華電子はテレビゲームを製造・販売していたが、あまり売れなかった。その理由は明らかだ。当時取り扱っていた家庭用テレビゲームは、内蔵する10個程度のゲームしか遊べなかった。しかも価格は高く、お金持ちの家でなければ買ってもらうことはできない。
そんな中、1983年に任天堂が画期的なテレビゲームを発売して大ヒットさせた。10個などとは言わず、カセットを入れ替えて多彩なゲームを遊ぶことができる。ファミリーコンピュータ、通称「ファミコン」だ。
段永平氏はファミコンを見て、これだと思った。ゲーム機本体が売れるだけでなく、ゲームカセットも売れる。しかし、日華電子ではゲーム機は製造できるかもしれないが、ゲームを開発することまではできない。任天堂と連絡を取り、中国での互換機製造を認めてほしかったが、任天堂がそんなことを許すわけがなかった。
そこで目をつけたのが、台湾の普沢が発売していた「BIT」というコンピュータだ。キーボードがついた筐体に独自のBASIC言語が内蔵されている。その人気の理由は、ファミコンのカセットを挿すとゲームが遊べてしまう仕様だ。もちろん、任天堂は公認していない互換機である。
段永平氏はこれに目をつけた。普沢と正式にライセンス契約を結び、中国でファミコン互換機の互換機「創造者」を開発。売れ行きはよく、日華電子の倒産は免れた。
貢献したものに報酬を。方向性の違いから段永平氏は独立。理想の会社を作る道へ
その後、普沢とのライセンス契約にトラブルが起きたことで契約を破棄。日華電子は独自に「小覇王」(シャオバーワン)を開発して発売する。これが売れに売れた。
ジャッキー・チェンを起用し、テレビCMを打ったことから火がついた。ファミコンのゲームが遊べるだけでなく、学習ソフトをつけて、学習機として売り出したことが大きなポイントだ。子どもはゲームがやりたくて親にねだるが、親は勉強にも使えるということで買い与える。
膨大な人口を持つ中国で売れただけでなく、アフリカや東南アジアにも輸出されて販売され、累計で1億台以上が売れたという。本家のファミコンと北米向けのNESが合計して約6200万台のところ、小覇王のほうがはるかに売れてしまったのだ。
この成功で、段永平氏は開発や販売に貢献した従業員に日華電子の株式を分け与えようとした。貢献した者が応分の報酬を得る、というのが合理的だと考えたからだ。しかし、親会社の怡華集団はそれを許さなかった。
これに失望した段永平氏は、1995年に日華電子を辞職。そして新会社「歩歩高」(ブーブーガオ)を設立する。自分の理想どおりの会社をつくろうとしたのだ。当然のように、多くの従業員が日華電子を退職し、歩歩高に入社した。
そして段永平氏は、歩歩高でも大きなヒットを生み出す。



