人生を変えたApple入社
米国時間の2025年6月5日、Macintoshの黎明期を支え、コンピュータ史にその名を刻む偉大なソフトウェアエンジニア、ビル・アトキンソンが74歳でこの世を去った。
奇しくも故スティーブ・ジョブズと同じ膵臓がんに倒れ、診断されたときにはかなり進行していたようなので、改めて、この病の恐ろしさを実感した。
彼の名は、初期のMacintoshの開発ストーリーを語るときに、必ず登場する。
アトキンソンは、当時のMacの画面表示を司っていたグラフィックルーチン群の「QuickDraw」をたった1人で開発し、それによって素早く滑らかなウインドウ表示や図形の描画を特別なハードウェアなしに実現することができた。
QuickDrawがなければ柔軟なグラフィック機能を実現することができず、その後のMacの運命も変わっていただろう。
このQuickDrawの実力がいかんなく発揮されたアプリケーションとして、初代Macにバンドルされてリリースされたのが、同じアトキンソンの手になる「MacPaint」だった。


マウスポインタの見た目が鉛筆や消しゴムなどの見慣れたツールに変わって絵を描けるという体験は、当時の一般ユーザにとって衝撃的であり、優れたソフトウェアのお手本として刺激を受けた開発者も多かったはずだ。
その意味で、後から生み出された各種アプリによって、間接的に、印刷やデザイン、教育などの領域にMacが浸透するきっかけとなったといっても過言ではない。
しかし、彼は元からソフトエンジニアを目指していたわけではなかった。
大学院で神経化学の研究をしていたのだが、かつての恩師でAppleの社員になっていたジェフ・ラスキンに誘われて同社を訪問し、スティーブ・ジョブズに説得されて入社を決めたのである。
ラスキンは、キャラクターベースだった本来のMacintoshプロジェクトを立ち上げた人物であり、ジョブズはアトキンソンに博士号の取得をあきらめさせてまでリクルートに成功したので、この2人がいなければアトキンソンの人生もまったく違ったものになっていたことは想像に難くない。
さらなる偉業の達成
QuickDraw、MacPaintに続く、アトキンソンの挑戦は、1987年に登場した「HyperCard」だった。
これは、現代のノーコード、ローコードの開発環境の先駆けともいえるオーサリングツールで、Webの原型と見る向きもある。
HyperCardは、テキストやグラフィックス、ボタンなどを配したカードをまとめたスタックと呼ばれるコンテンツを作り、カード間をハイパーリンクでつないだり、「HyperTalk」という簡単なスクリプト言語で処理を記述したりすることで、インタラクティブな動作を実現できた。


プログラマーでなくとも、自分の情報空間を構築できるこのツールは多くのユーザに創造の場を与え、HyperCardを使いたいためにMacを購入した人も現れた。
HyperCardを使ってゲームや教育ツールを作った子どもや教師たちが、今に続くインターネット文化の一翼を担ったともいえるだろう。
のちに筆者は、責任編集を務めた「HyperLib」というメディアのために彼のインタビューを行い、当時のApple本社で取材したのだが、そこでは意外な裏話を明かしてくれた。
QuickDrawとMacPaintの開発後に彼は燃え尽き症候群にかかり、目の前の目標がなくなって何も手につかない時期があったというのだ。
しかし、気を取り直して未来の情報環境について考え始め、「Magic Slate(魔法の石板)」という、のちのタブレットデバイスのようなデバイスを構想した。
それは、HyperCard自体がOSとして動いているような環境で、ユーザは自分に必要なツールを自ら作って使うことができるというものだった。
もちろん、Magic Slateはアラン・ケイのDynabookと同じく、当時のハードウェア技術では実現できない環境である。
そこでアトキンソンは、そのサブセットともいえるツールをMac上で動かすことにして、HyperCardを開発したのだ。
そのとき、すでにジョブズはAppleを去っていたが、アトキンソンは新たにCEOとなったジョン・スカリーに掛け合い、HyperCardをMacに無償でバンドルして配布することを約束させた。
そうすることが、道具としてのコンピュータという理念を具体化するものだったからだ。
また、アトキンソンはMacPaintもHyperCardも、自身が関係したのはVer.1.xまでで、Ver.2.0以降は他のエンジニアに任せている。
それは、原型を作ることがもっとも重要と考え、自らそのクローンのような派生ソフトを手掛けようとは思わなかったためで、その点は一貫していた。
それにしても、1つ質問をするたびに、延々と情熱的に話してくれた彼の姿は、今でも忘れられない。
そのときの彼は、生粋のエンジニアという印象だった。
後年は新たな道へ
1990年に彼はAppleを離れ、Macの開発チームの一員としてOS開発などに尽力したアンディ・ハーツフェルドとともに、パーソナルコミュニケーターのためのハードとOSを開発するGeneral Magicを設立。
そのOS製品であるMagic Capとスクリプト言語のTelescriptは、ソニーやモトローラにライセンスされ、1994年にMagic LinkやEnvoyの名で市販された。

しかし、運悪くオープンなプロトコルを基本とするインターネットが普及しようとしていた時期と重なり、クローズドなコミュニケーターであるGeneral Magicの技術は、普及することなく2002年に幕を閉じた。
その後のアトキンソンは、もともと関心があった写真家としての活動や自然への探求に心を傾けていく。
また、その流れで、ソフトウェアエンジニアとしても、写真をナチュラルな色調で印刷するためのシステム開発などにも携わった。
ユニークだったのは、鉱物の断面をアートとして捉えて撮影した作品群で、写真家としても、他とは異なる視点でモノを捉えていたことが伺えた。

ビル・アトキンソンの永眠は、AIが台頭する以前のIT業界の一時代の終焉でもある。
しかし、彼が蒔いた種は、今も数多くのデザイナー、エンジニア、アーティストの手によって芽吹き続けている。
アトキンソンのソフトウェアは、単に機能する道具ではなく、「人間による創造とは何か?」を問いかける彼なりの哲学の媒体だった。
今日、コンピュータやスマートフォン、タブレットで絵を描き、リンクを辿って情報を探し、子どもたちもプログラミング思考を学ぶことが当たり前になっている。
それはまさに、アトキンソンが夢見た「誰もが表現者になれる社会」の具現化でもある。
ありがとう、ビル・アトキンソン。
あなたの残した思考のツールたちは、これからも私たちの手と心を動かし続けるに違いない。
著者プロフィール

大谷和利
1958年東京都生まれ。テクノロジーライター、私設アップル・エバンジェリスト、神保町AssistOn(www.assiston.co.jp)取締役。スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツへのインタビューを含むコンピュータ専門誌への執筆をはじめ、企業のデザイン部門の取材、製品企画のコンサルティングを行っている。