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「箱モノ」を増やせない都市でiPadが歯医者を拡張する

著者: 朽木誠一郎

「箱モノ」を増やせない都市でiPadが歯医者を拡張する

今やほとんどの人が自分のiPhoneにLINEをダウンロードし、メッセージのやりとりをしていることだろう。一方、仕事では同じ「連絡」の用途でも、使いにくいほかの手段を用いる非効率が生じているのではないか。IT化とは既存ツールの最適な組み合わせを模索すること―ある歯科医院の事例から、その理想形が見えてくる。

「0歳から100歳まで」を実現

「『真のかかりつけ医』になるには、『病院に来られなくなったら診ない』ではダメなんです」

練馬区で歯科クリニックを営む歯科医の草川洋氏は、訪問歯科診療に積極的に取り組む理由をそう説明する。

高齢化を迎えた日本では、要介護認定を受けるなどして移動が難しい患者も多い。少し古いデータだが、2002年の厚生労働省研究班の実態調査では、要介護認定を受けた高齢者の89・4パーセントに口腔ケアなどが必要だった。しかし、受診したのは全体の3割弱。特に高齢で介護が必要な患者にとって「歯医者に行く」ことはハードルが高いとわかる。

そのため、歯科医や歯科衛生士が自宅に来てくれる「訪問歯科」には期待も大きい。草川氏も2013年頃から同クリニックで訪問歯科を始めた。

「うちのような地域密着型のクリニックは、乳幼児から高齢者までの口腔ケアを担っています。しかし、訪問歯科を始めるまでは、患者さんが病院に来られなくなったところで関わりが断たれてしまっていた。本当に『0歳から100歳まで』の口腔ケアを実現するには、訪問歯科の実施が不可欠だったのです」

同クリニックが医院を構える場所は、近隣に多くの歯科医院が乱立する「超激戦区」でもあった。よりよい立地と新規の患者を求めるには、たとえば分院化という手法もあるが、土地や建物などの「箱モノ」が必要になって固定費がかかり、地価の高い都市部では現実的ではない。訪問歯科にはこのように、医院経営上のメリットもある。

しかし厚労省によれば、基準を満たして国に「在宅療養支援歯科診療所」の届け出をした歯科診療所は15年4月時点で約6400施設。これは同年10月時点で全国に約6万8700施設ある歯科診療所の1割にも満たない数字だ。日本において生涯の口腔ケアはごく一部でしか提供されていないことがわかる。

東京都練馬区にある洋歯科クリニック。幅広い「地域医療」のニーズに応えられる診療がモットーで、訪問歯科・予防歯科に注力する。クリニックでの診療や訪問歯科により、地域のかかりつけ医として「患者の口内の健康を生涯、守り続けること」が目標。

医療法人社団 和春会 洋歯科クリニック 理事長・院長・歯学博士の草川洋氏。鶴見大学歯学部歯学科卒業後、都内歯科医院に勤務。2005年に洋歯科クリニックを開院。現・日本フィンランドむし歯予防研究会理事。

iPadでつなぐ移動式「診察室」

そんな草川氏は、訪問歯科を開始した頃からiPadを活用している。訪問歯科では基本的に医師1人と歯科衛生士1人の計2人チームで行動。「ユニット」と呼ばれる診療に必要な治療器具セットを持ち歩く。この中には唾液を吸い取る「バキューム」や歯石を除去する「スケーラ」などの器具が常備されており、いわば移動式の「診察室」になる。

このユニットがかさばるため、かねてから訪問歯科の現場には「手荷物をできるだけ減らしたい」というニーズがあった。そこで訪問歯科診療を奨励する日本訪問歯科協会が、加盟歯科医院へのiPad1台の無償提供を実施。同クリニックもその対象となり、iPadにより訪問歯科のIT化を推進してきた。

「従来の訪問診療では薬剤の添付文書やカタログ、患者宅や施設の地図など、多くの資料を紙で持参していました。それらをデータ化したりアプリで代替したりして、iPad上に整理しておくことで、フットワーク軽く患者さんの自宅を訪ねることができるようになったんです」

協会から提供されたiPadには、訪問歯科にまつわる医療事務、特に報告書などを作成する専用アプリケーションがインストールされていた。それ以前の訪問歯科では、診療が終わってクリニックに帰ってきてから、出先でメモした内容をもとに紙の報告書を作成し、FAXで送付する、というフローが存在した。しかし、このアプリがあれば出先で、あるいは移動中に入力し、クラウド上にアップロードするだけでいい。1件につき10~15分かかっていた報告書作成と送付の時間が大幅に短縮できるようになったという。

実際に訪問歯科に活用しているほかのアプリについて質問すると、回答は意外にも「グーグルカレンダーとグーグルマップとLINE」だった。

「私を含めて3人の歯科医師が訪問歯科を担当しているので、まず、カレンダーでそれぞれの予定を把握、予約状況を管理する必要があります。そして、各医師がどんなルートで、どこを回るのかをマップ上にピンで示す。そうすると、患者さんの同意があればですが、医師間で患者さんを交換したほうが効率がいい、とわかることがあります。チームの出発後は、現場とクリニックとの連絡をLINEでする。もちろん個人情報に問題のない範囲で、です。IT企業などでは当たり前なのかもしれませんが、医療、特に訪問歯科という領域に、このように予定の管理や地図の表示、連絡が一気通貫で可能になるシステムはありません。そうすると、既存のアプリを組み合わせるほうがずっと手軽で、実用的なんです」

また、訪問時に「患者さんの写真を撮影する」という試みもしている。治療が終わったタイミングで記念写真を撮り、許可があれば同クリニックのブログでも紹介。「歯を見せて笑えるかどうかで、患者さんの満足度が写真に表れるのでは」と考え、iPad導入時から続けているそうだ。

現在、同クリニックでは歯科医師用に2台、歯科衛生士用に2台、クリニックに1台のiPadを配備。iPadは移動式の「診察室」をつなぐハブとして、円滑な運用に寄与してきた。それだけでなく、訪問歯科という日本ではまだ浸透していないチャレンジに取り組むハードルを引き下げたともいえる。

訪問歯科診療に従事する歯科医師で構成される一般社団法人・日本訪問歯科協会。訪問歯科診療および口腔ケアを必要とする患者の立場で、身体だけではなく精神的な健康も視野に訪問診療を実施、QOL(生活の質)の向上を目標とする。

地域包括ケアに「歯科」を

今後はさらに、医療と介護を連係させる「メディカルケアステーション(MCS)」というプラットフォームを導入、iPadで利用する予定だ。このプラットフォームでは、患者の情報が安全に配慮されたクラウド上に保存され、その患者の治療やケアに関わる人たちがリアルタイムに閲覧できる。医師による訪問診療や介護福祉士による訪問介護では一般的になりつつあるが「訪問歯科では導入が遅れていた」と草川氏は明かす。その理由は「地域包括ケア・多職種連係の現場において、歯科医療の重要性の認知が広がっていなかった」からだ。

「私自身、訪問歯科が大事だと気づき、始めてからまだ6年ほど。地域包括ケアと言うと、医療者でも『命に関わるものが優先』という意識が強いんです。そのために、高齢者の口腔ケアがQOL(生活の質)に大きく影響すること、場合によっては虫歯で歯を失って食事ができずに低栄養になったり、菌の繁殖により肺炎を招いたりすることが理解されていなかった経緯があります。歯科医師もその輪に入れるように、多職種連係の勉強会に参加するなどして重要性をアピールしながら、自分も日々、勉強しているところです」

同クリニックの来院患者数は月間約300人。訪問歯科の患者数はほぼ同等の約250人と、訪問歯科への注力のほどがうかがえる。

「日本は超高齢化社会に突入していますが、それは世界に『訪問医療』というローコストで効率的な新しい診療のあり方を提示するチャンスでもあります。そのために必要なのは、iPadのような便利なIT機器を活用して、ベストプラクティスを模索すること。来院できなくなった患者さんもしっかり診ていくという”ホスピタリティ”を、時代に合った形でこれからも提供していきます」

日本訪問歯科協会が提供するツール。介護保険の請求時にケアマネージャーへ実績報告をするためのツールでは、書類の記入からFAX送信までを、iPad上でワンストップで完結できるようになった。

訪問歯科に従事するスタッフ間で、予定や予約状況をGoogleカレンダー上に共有。既存のツールを使うことでコストを抑え、効率的にリソースを管理している。

洋歯科クリニックのココがすごい!

□訪問歯科で「0歳から100歳まで」の口腔ケアを実現

□iPadをハブにローコストで効率化された診療を提供

□地域包括ケアの中で口腔ケアの重要性を示していく